彼が作り出してきた様々な世界観、ダンバイン、ザブングル、イデオン、はどれも物語だけでなく、風景があり、経済があり、群落があり、政治があり、宗教がある。作品の前にその社会がどのように成立しているかという作り込みがある。想像すれば、まず監督自らがその世界に住んでみたのではなかろうか。その世界に住む吟遊詩人であるから、物語を語ることができたのではなかろうか。
ガンダムという成功も社会がきちんと作り込まれているからこれ程に続いたのだろう。それは歴史であり地理であり物理である。オリジンとターンAが同じ歴史とは信じ難いが、それを成立させるだけの強靭さをガンダムの名は持っているのだろう。レコンギスタもガンダムの名を冠する物語として生まれた。
未だガンダムが登場する作品しか作れない事は、この国の貧弱さだ。どこにも彼の作家性に惚れ込み資金を提供する者が居ない。それでも彼はガンダムという背景さえもらえれば十分である、新しい作品を描くのに何も困る事はないと語る。その強靭さが悲しい。
ターンAがガンダムである必要性はなかった。あれは多宇宙のなかのひとつのガンダムとして存在する。モビルスーツという言葉とミノフスキー粒子さえ出しておけばガンダムとして成立する。しかし彼がどれほど新しい駆動系を考え出したか。それを思えば新しい何かを見てみたかったという気もする。
彼が残したロボットの多彩さ、モビルスーツ、ウォーカーマシン、オーラバトラー、ヘビーメタル、オーバーマン。これらの名称は新しく発明されたものである。発明には理由がある。新しい名称が新しい世界を象徴するからだ。
その新しい世界には、様々なストーリー、キャラクター、スピンオフ、クロスオーバー、を受け入れるだけの拡がりがある。その尤も成功した世界がガンダムだ。連邦とジオン、近未来の戦争、モビルスーツのある生活。
彼の作品は最初に生活がある。人々の生活の中にロボットが登場する、その逆はない。生活の延長に物語を紡ぐ。ザンボット3に自衛隊が登場するのも、自衛隊に接収されるのも、少しだけ日常ではない生活に過ぎない。
生活を描く。そこにロボットという非日常を入れる。そこには本来違和感があるはずである。その非日常を当たり前のものとするために富野節がある。この非日常的な会話が物語にある生活を非日常的なものにする。それが視聴者にロボットと生活の間に本来あるべき違和感にリアリティを与える。
Gレコを観て彼の作家性に始めて気が付いた。彼の描く女性が如何に魅力的であるかに初めて気が付いた。
富野由悠季は女性を描かせれば当代随一の作家である。彼の作品には常に魅力のある女性が登場した。敵であれ、味方であれ、ゲストであれ、どの女性もである。そして女性によって世界は語られる。知らぬうちに僕は作品に登場する女性の視線で物語の中に入り込んでいたらしい。
Gのレコンギスタであれば、ノレド・ナグを通して作品を見ている。これは彼女が作品の中心点に居るからだ。視聴者と作品を繋ぐ場所にいて、その世界の対立を教える。彼女が居る所からふたつの対立軸へと足を踏み入れる。
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もちろんこのキャラクターだけが中心に居るのではないだろう。物語が進むにつれて作品の中の様々な女性が入れ替わり立ち代わり僕の視点となる。その彼女たちの生活の中に何もかもが登場する。それを僕は見る。女性が生活の事なのである。
セイラやミライやフラウだけではない、ミハルやハモンも同じであった。マチルダもそうであったし、不幸にしてきちんと描けなかったキシリアでさえ同じだ。彼女たちによってガンダムという世界に生活が営まれたのである。
コロスはどうだ。
どの作品にも魅力的な女性たちがいる。
恵子の最期も、アキの最期も、生活の延長にあった。勝平のお母さんとミチが海岸で待つのもそうではないか。
Gレコも同じだと思う。これは登場する女性を楽しむ作品である。彼女たちの生活を通して、この世界がどうなっているのかを知る。誰の正義か、誰の主張かも、そんなものさえ彼女たちの生活の中にある。彼女たちを通して世界を見る。これがGレコではないか。
そこにはガンダムさえ必要がない。ガンダムという過去を見る必要はない。「前世紀の遺物」とは20世紀の、という意味であろう。しかしガンダムであっても構わない。女性は魅力的である。そして作品がどこに向おうともそこは変わらぬと思う。
彼の口に出さぬ恨みを想像する。だがそれが何になろう。この新しい物語との出会いと比べれば。