歌は時間的に凝縮する。流れる時間と停止した時間が交差する。時間が停止するのは、山頭火が周りから取り残されているからだ。それは写真というより動画が一時停止したかのようだ。駅に停車した蒸気機関車の感じもする。
表現は子供のよう。児戯のようであり、無垢なのか、朴訥か。それは着想が子供らしいからなのか、それとも表現から余計なものを取り除いて残ったものがこうなったのか。
草木塔(青空文庫No.749)
山行水行
糸瓜ぶらりと地べたへとどいた
夕立が洗つていつた茄子をもぐ
夕立と茄子の出会い、そして私と出会う。夏のみずみずしさがある。擬人化された夕立が去り、もいだ茄子が籠にたくさん積まれた風景がある。収穫に生きる事の肯定が感じられる。
ざるいっぱいの茄子から牛あるきだす
ざるいっぱいの茄子から牛あるきだす
お月さまが地蔵さまにお寒くなりました
月の出ている夜、月明かりが地蔵さまを照らす。その光景を見ている自分をお地蔵さまは見守ってくれるだろう。お寒くなりましたとお地蔵様に挨拶しているのは月であろうか。月明かりを見てお地蔵様に挨拶をした自分だろうか。
薄野がゆれてお互いよい月ですね
薄野がゆれてお互いよい月ですね
誰か来さうな雪がちらほら
誰かが来るかもしれない。そんな期待。雪がちらほらとする。ちらほらふる雪が擬人化されている。ほら雪が訪れたというのは寂しいだろうか。雪が降り始めたのなら恐らく誰も来ない。だのにまだ期待が続くような感じがする。
こんなひとりの冬は星がしっぽり
こんなひとりの冬は星がしっぽり
ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない
ふくろうは起きている。わたしは眠れない。なぜ眠れないのか。そんな事はどうでもいい。寝ていないものどうしが同じ夜を過ごす。それが孤独感を際立たせる。例え誰かが隣で寝ていたとしても孤独である。ふくろうが居るからいっそう孤独である。
夜行列車の音がするわたしも今夜はねむれない
夜行列車の音がするわたしも今夜はねむれない
ひよいと穴からとかげかよ
ひよいと誰かのような気がした。その気配はとかげであった。静かな場所に暑い日であろうか。とかげのひやりとした感じがする。夏の涼しさのようでもある。とかげの気配を人と思ったのではないか。と言うくらいにはひとりだった。「とかげかよ」はひとり言ではなく思わず口から出た誰かに向かっての言葉だろう。だから隣に誰かが居ても居なくてもよいのだ。
石垣のヘビがじいっと見つめてる
石垣のヘビがじいっと見つめてる
蜘蛛は網張る私は私を肯定する
蜘蛛が巣を張っている。網を張るはまるで漁師のようだ。そうやって生きている。私は何をして生きているのか。蜘蛛も働いているのに私はどうだ。だが蜘蛛も誰かに褒めてもらいたくて網を張っているのではないだろう。誰から認められなくても自分は肯定する。そういま決めた。
カマキリが寒さに耐える私は布団に潜り込む
カマキリが寒さに耐える私は布団に潜り込む
旅から旅へ
よい道がよい建物へ、焼場です
歩いている。視点が変わってゆく。それが情景になる。何の情感もいらない。何か明るい。これは葬式の歌であろうか。道を歩いていた。向こうによい建物があった、もう少し歩くとそこが焼き場であった。どの季節だろうか、人によっても違うだろう。春の桜が散る道でもよい、夏の木々が茂る道でもよい。秋の紅葉に染まる高い空の道でもよい。冬の枯葉に覆われた道でもいい。焼き場を人生の終点と見るならそのままこれは人生そのものである。しかしそれでは詰まらない。これは風景であって人生ではない。人生はそんな単純ではない。
道を歩きビルの間に、白い月
道を歩きビルの間に、白い月
春が来た水音の行けるところまで
水音の行ける所まで、とはどういう場所だろうか。誰もが意図する所は分かっている。水音がする所に行く。水音とは雪が融けたの意味である。雪が溶けて道が歩けるようになった所にどこまでも行く。
春が来た(雪が解けて)水音の(聞こえる道が歩けるようになって)行けるところまで(旅に出よう)。
煙吐き駅へと向かう人の声
春が来た(雪が解けて)水音の(聞こえる道が歩けるようになって)行けるところまで(旅に出よう)。
煙吐き駅へと向かう人の声
さて、どちらへ行かう風がふく
この感じに意味はない。さて、どちらへ行こう。これは言葉である。風がふく。これも言葉である。このふたつを結びつけるものは何もない。意味的には。だがふたつを並べると迷いがなくなる。どちらへ行こうと迷っていなくなる。風が吹いても何も変わらないのに。風に追われて向かうもよし、風に向かって行くもよし。何も決めていないのだから迷いもない。
さあ行こう、雨が降るこの春も
さあ行こう、雨が降るこの春も
この道しかない春の雪ふる
目の前に道がひとつしかなければ、この道を行くしかない。しかしそれを受け入れる事は決意だろう。その決意を祝福するのが春の雪か。
この道をゆく雨雲のある方へ
この道をゆく雨雲のある方へ
雑草風景
残された二つ三つが熟柿となる雲のゆきき
寂しさ(残された)、時間の経過(熟柿となる)、並列(雲)。4つの文。1.残された、2.二つ三つが、3.熟柿となる、4.雲のゆきき。5,6,6,6の俳句。俳句のリズム。「残された二つ三つが雲のゆきき」が主節だと思う。そこに副次的に(熟柿となる)を入れる。これで意味が通る。(二つ三つが熟柿となる)で一節になる。
残された三つ四つが腐りかけの蜜柑かな
残された三つ四つが腐りかけの蜜柑かな
ぶらりとさがつて雪ふる蓑虫
夏はへちま。冬は蓑虫。ぶらりという表現が面白く心を捕えているよう。
ずぶ濡れの警備員が冬を追う
ずぶ濡れの警備員が冬を追う
ひつそり咲いて散ります
散ります、という言葉が、これは花のことなのか、自分のことなのかを分からなくする。そこに擬人化がある。花に重ねて自分を歌っているのではないかと感じさせる。
五月晴れ寝てる間に帰ります
五月晴れ寝てる間に帰ります
あんたが来てくれさうなころの風鈴
あんたが来てくれさうな風鈴、ではない。「ころの」を入れると抑揚が変わり意味が変わる。ただの瞬間ではなく時間の流れの中での瞬間。長い間待っているか。ずっと待っているのか。それとも来てくれたのはもう昔の話なのか。
人が来て風が通れば風鈴
人が来て風が通れば風鈴
朝顔伸びて地べたにこしかけ