それを 4 つでひとつの物語として見るから繋がらない。4 枚の連作された絵画であると見ればそれで十分である。作中の数分間が絵画的であればそれでよい。それ以外の時間はそれを支える額縁の様なものだ。繋ぎ合わせて映画として存在するがこの作品は一枚の絵画である。
それぞれは描かれた年代も背景も状況も違うから色合いもタッチも違っていておかしくない。連続するように見えるのは額縁が繋がっているからだ。それぞれ違う絵だから額縁の繋がり方に矛盾があると言った所で違って当たり前の話しである。同じ主題を調律を変えて奏でた音楽に例えてもいい。
僕の持っている人生観や考え方以外に確実なオリジナリティは存在しない。それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。そこの部分なんですよね。コピーをする時に自分の魂をこめる。まあ、それは人の魂が入っている、ただのコピーではない。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.50
ヱヴァンゲリヲンの雰囲気や肌触りは何かに似ていると思っていたが科学特捜隊であると合点した。ウルトラマンではなく科学特捜隊という物語。ヱヴァンゲリヲンはウルトラマンで代替え可能に思う。
この作品の世界観はどうにでも作り変え可能だ。登場人物さえ同じならエヴァという物語はどのようにでも表現できる。それはテレビシリーズ第 26 話 - 世界の中心でアイを叫んだけもので示されている。庵野秀明が作り直したものでもそれはひとつの作品の解釈に過ぎない。
劇場版は旧作をいったんバラバラにして組み立て直した。作品を詳細に分析すれば単なる旧作の切り貼りではなく、他の作品からの転用があちこちにある事に気付く。何処かで見た風景があちらこちらに散りばめられている。
テレビ万能時代に生きたものの宿命ですね。もっと認識すべきだと思うんですよ、僕らには何もないっていうことを。世代的にすっぽりと抜けている。テレビしか僕らにはないんですよ。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.19
この物語に登場する最前線で戦う戦闘集団は素人の集まりだ。集団としても未成熟であるし指揮系統も脆弱だ。14 才の子供に銃を持たせる。アフリカの少年兵に実際に起きている事が作中で起きる。65 年前にあと 3 ヶ月戦争が続いたらこの国でも起きていた事が作中で起きる。子供に銃を取れという大人が登場する。そこにあるのは架空のリアリティだ。だから素人集団でなければ物語は成立しなかった。
物語が持つリアリティとファンタジーは均衡しなければならない。リアリティをひとつ作り込めばそれとバランスを取る様にファンタジーが必要になる。ひとつのファンタジーを作り込むためにはそれとバランスの取れたリアリティが必要になる。そうやって作品は成立する。描き直された新劇場版の使徒の表現、CGによる洗練されたメカニズム、キャラクターの表情は魅力的で美しく完成度が高い。それは映像のアートだ。そのリアリティに裏付けされ物語のファンタジーも巨大化する。
僕らは結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない。それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。それ以外はすべて模造といっても否定できない。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.49
物語は、未解決の課題、作者はこの後をどうするんだろうという謎によって観客を足止めする。作中に現れる思想や説明など取るに足らない、ナレーターのいない世界(ミサトが変わりを担う)で物語を構築するのに最低限必要な骨格だ。
日常会話の楽しさとシリアスな状況での会話を対比してみても苦痛である。この作品は様々に解釈できる。新しい解釈が新しい魅力を発見する。挿話ひとつが多彩な解釈を生む。科学的に宗教的に童話的にアニメ的に世界観が拡がる。それを提供するプラットフォームだ。しかしたかが物語ではないかとも思う。そういうことなら我々人類は聖書でさんざんやってきたではないか。
これらの連作を作るうえで作者が一番苦心した事は何であろうか、それは観客から逃げ出す事ではないかと思う。こうなるであろう、ああなるであろうと勝手な観客の予測を絶対に裏切ってみせる、その為には如何なる手段も厭わない。オリジナルをベースとしながらも作者は観客の前を疾走し遠さがる。
最初のテレビシリーズは藤井に教えてもらった。それは "アスカ、来日" だった。それを見た時の感想は、オタク相手。なんら感心を持てず、後日放送されるテレビ東京の深夜一気見放送まで興味から外れた。第一話。エヴァンゲリオンとは第一話のレイの包帯姿から始まる。なんだこれという心の声。あれを見たから今がある。
テレビ版の最終話の破綻が好きだった。制作が時間的にも創作的にも行き詰りのた打ち回って出した結論。そのケリの付け方は斬新で男らしい。分からないものは分からない、出来ないものは出来ない、と堂々と言ってのけた。謎解きなど全部うっちゃった。全部分かった上で批判を堂々と受け止めた。お前たちの非難なぞ全部知っている、それでもこうするしかなかったと言う作者の苦しみが聞こえた。
この作品の何が面白いのか。旧劇場版は、監督の錯綜ぶりがまるでシシガミが切り取られた顔を求めて森を彷徨うようだった。エヴァンゲリオンは失われた最終回を求めて迷走しているのかと思った。そして薄々と誰もが思い始めている、これだけの期待に応えるだけの物語の終わりなど存在しないのではないかと。
旧劇場版では散りばめた多くの伏線を回収できなかった。それ以前にアヤナミが巨人になった。ファンタジーを通り越してホラーになった。それは陳腐と呼ぶべき造形であった。キリスト教や量子力学の謎もそのまま残った。聖書の解釈が多くの文学作品を生み出した様にエヴァンゲリオンも聖書から生れた作品として、幾つもの解説、解釈、そしてオマージュを生んでいる。その系譜は今も続いている。最終回とは何であろうか、どうケリを付ければ最終回となるのか。物語が終わるとはどういう事か。
旧作の最終話だけを見た。鑑賞に耐えられなかった。この作品は前提を必要とする。最終話だけを切り取って見ても面白くない。最終話への流れが見えていないと面白さは伝わってこない。コンテンツ(中身)ではなくコンテキスト(文脈)に物語の面白さが存在する。
包帯だらけのレイはいきなり目の前に突き付けられた現実である。どうなると言う気持ちがこの作品を先へ押し出す。時計の針が動き始める。時間を切り取った間だけ花を咲かせ、連綿と続く生命の進化の中で遺伝子を次の世代に託すかのように、シンジが綾波を救い出すシーンは太古の地球に最初の生命が誕生するかのようだった、それ以前の生命が全て滅んでも構わず。これは一枚の絵画だ。
ヱヴァンゲリヲンのプロットは退屈である。男が失った妻を生き返らせようとする。キリストの復活ではない。人類補完計画は死から逃れようとする老人の暴走に過ぎない。中世なら処女の生血を飲もうしただろう。永遠の命に絶望し自殺も出来ぬから一体などと言う妄想に走る。この物語を構成する二つの巨大な権力の存在がリアリティを得るために必要であった。だから描きようがない。巨大なリアリティが薄汚れた老人たちの妄想なのだから。
手の内を見せればファンタジーになってしまう。隠しておけばリアリティになる。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、とはそういう意味だ。レイは何故ああまで戦うのか。この秘した花の唯一の現象がレイだ。謎のままでよい。意味など与えない。彼女は何の為に戦うのか、彼女の意志は何であるのか。
それが明かされれば物語が崩壊する。レイは憑代である。コアに閉じ込められたユイのではない、作品の憑代だ。彼女がファンタジーをリアリティに変換している。その花の魅せ方をいろいろな咲き方を劇場版が語っている。
物語の終わりとはファンタジーの量が 0 になる事かも知れない。そこで花は消え現実に戻る。どうやって花は消えるか。ファンタジーの象徴を破壊する以外にどんな方法があるのか。
「綾波を返せ」からの数分間だけが作品である。それが与える感動を増幅する為にストーリーを必要とした。キリストを知らない人にとってヨーロッパの絵画の意味が全く違ってしまう様に背景を必要とした。それを額縁に散りばめる事で成立させた作品だ。美とは装飾が全て消え去っても残るものであるが、人々の衆知を集めるには立派な額縁も必要である。その額物を通してしか見えてこない絵画の風景がある。
ヱヴァンゲリヲンには家族が登場しない。家族を失った者達の物語にさえ見える。家族を失ったものたちが幻想の中で家族と出会う。それが神であったり使徒の姿をしているのかも知れない。幻想の中でヱヴァンゲリヲンは偶像として登場する。
綾波を、返せ!僕がどうなったっていい、世界がどうなったっていい、だけど綾波だけは、せめて綾波だけは、絶対に助ける!
誰もが感じている事だと思うがヱヴァンゲリヲンという作品は何かしら病的である。レイの包帯姿が場所を病院である事を象徴している、と強引に見るならば、これを病院での出来事と解釈してもいい。社会から隔離された精神病院での出来事だ。病を抱えた者達の病的な幻想を編集した。妄想の中で襲い来る使徒。母親や家族の思い出でその妄想と対峙する人々。人類補完計画とは自分達に理解できない病室の向こう側の話しかも知れない。
妻を亡くした男が妻を蘇らせたいと望む、父親に虐待されていた少年が強くなりたいと願い、事故で両親を亡くした少女が幸せだった頃を思い出す、仕事や不倫で疲れた女、その人たちの哀しみや強さと向き合う過程の記録ではないか。その隣で付き添うのは分かりあえた友人だろうか、それとも病院のスタッフであろうか。
使徒は妄想であるしヱヴァンゲリヲンも妄想である。ロンギヌスの槍はアスクレピオスの杖から連想された患者たちの妄想だ。あの明るい、素敵な、僕の好きだった最終回は、取り敢えずの退院であろうか。彼らは病と向き合い入退院を繰り返す。おめでとうと拍手で送り出されるシンジ、それは喜ばしい事のように見える、だが彼の帰る社会はどこにもない、病院以外。
病気は快方せずまた入院する。入院しもう一度初めから物語を紡ぎ始める。ヱヴァンゲリヲンとはそういうものではないか。同じ事をループしながら少しずつ違う未来を探している。何回でも最初からやり直す。そういう解釈だって間違いじゃない。
だけど・・・医者の中にも患者の中にレイがいない、彼女は何者なの?
この物語は精神を病んだものが紡ぎ出した妄想なのか、だが作品と妄想の違いはどこにあるのだろうか。世界観がそう解釈されたとしても作り出された物語の正気を担保するものがどこかにある、そうこの作品のどこかに。
P.S.
:Q とはエヴァンゲリオンにおける Z ガンダムかも知れないと何となく思う。