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2024年8月25日日曜日

俳句・自在句

与謝蕪村
春の海 ひねもすのたり のたりかな

この歌を575で区切るべきものかな。

春の海
ひねもす
のたりのたりかな

とする方がいい。

俳句17文字、英文3行でhaiku、シラブル17音で単語ではない所が如何にもな感じ、中国語17字で漢俳。自由律俳句は文字数も575の制約もない。詩と形式を区別するものはない。それでもこれは俳句だと分かる何かがある。

二句一章であるとか無タイトルであるとか俳句と区別する見解はあるが定義はない。モーラ(区切り)という考えもあるが、それさえ疑わしい。それでもこれは俳句だよと確かに言える。

人によって差はあれど、私たちの感覚にはそれをする能力がある。恐らく、音数も音節も関係ない。リズムが俳句ならそれでいいと考える。よって140文字の俳句は可能である。生み出せた事はないが。

このリズムは3区切りと思えるが、小さい1で2に見える場合もある。小さい2が加わって5でも3と感じる場合もある。最後にうん、3である、と感じられるなら俳句と思える。

と言う事は川柳とはリズムが違うという意味になる。短歌ともリズムが違うという意味になる。これは息継ぎの間という考え方でもいいと思われる。つまり、息継ぎの音を含めれば俳句は5区切りである。この息継ぎを一気に通せば異なる形が得られる。

または、音として、確かに書かれた音があるにも係わらず、それは浮いている、空であるという感じ方ができるなら、それは区切りに含めなくてよい、または一音にも係わらず5音と渡り合うならそれは一区切りにしてもよい。

短歌は情緒を語るのに最低限にして十分な文字数があると思われる。一方で俳句は足りない。だから瞬間刹那一瞬を活写し、それで神経の中を走る電気信号となる。

こうして形式は自在になってゆく。それでも確かに読み終わった時に、これは俳句であるという共通認識がある。

種田山頭火
分け入っても
分け入っても
青い山

まっすぐな
道で
さみしい

春の雪ふる
女はまこと
うつくしい

ころり
寝ころべば
青空

わかれてきた道が
まっすぐ

生死の中の雪
ふりしきる

だまって今日の
わらじ履く

さて、どちらへ行かう
風が吹く

何を求める風の中
ゆく

ちんぽこもおそそも湧いて
あふるる湯

鴉啼いて
わたしも一人

いつも一人で赤とんぼ

尾崎放哉
咳をしても
一人

うそをついたやうな昼の月が
ある

森に近づき
雪のある森

こんなよい月を
一人で見て
寝る

蜜柑たべてよい火にあたつて
居る

よい処へ乞食が来た

なんと丸い月が
出たよ


恋心
四十にして
穂芒(ほすすき)

母の無い児の
父であつたよ

春の山の
うしろから烟が
でだした

障子をあけて置く
海も暮れきる

住宅顕信
春にはと
思う心に
早い桜

どうにもならぬこと
考え夜が
深まる

泣くだけ泣いて
しまった顔

月明かり、
青い咳する

握りしめた
夜に
咳こむ

月が冷たい

落とした

秋深い
山からおりてきた

春風の
重い
扉だ

一人の灯を
あかあかと
点けている

伊坂幸太郎
春が二階から
落ちてきた

岡本眸
ポピー咲く帽子が好きで旅好きで

三橋敏雄
いつせいに柱の燃ゆる都かな

池田澄子
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

松尾芭蕉
あけぼのや
しら魚しろきこと
一寸

やまぶきの露
菜の花の
かこち顔なるや

海くれて
鴨のこえ
ほのかに白し

いざ行む
雪見にころぶ所まで

自由律俳句は芭蕉から既に始まっていたのである。

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