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2011年8月29日月曜日

巧言令色鮮矣仁 - 孔子

巻一学而第一之三
巧言令色鮮矣仁(巧言令色、鮮なし仁)

不思議な言葉である。鮮なし仁とは、ほとんどない、少ないと訳される。

言葉を巧みに操り人の顔色を見て行動する人のほとんどには仁がない。

つまり太鼓持ちなどろくな奴じゃねぇと言っているわけだ。

これはおべんちゃらを使って出世する人を見ての一言のように思われる。

自分と比べて口のうまい奴がどんどんと取り立てられる。それをみて、そういう奴のほとんどには仁がないよ、と嘆息されたのだ。

つまりは、負け惜しみだ。

それでもこの言葉で大切なのは、鮮矣という所だ。

仁がないのではない、仁が少ない、または、たまには仁を持っている人がいる、そういう意味なのだ。

仁がない、と言い切れない所が面白いのであって、巧言令色であっても仁を持つ人もいるだろう。または巧言令色であっても少しばかしの仁は持っているものだ。

仁が有りや無しやの二つに一つなのか、量として多い少ないものかによって、ここの解釈は微妙に変わったりするのだが、ここはあまり重要な話ではない。

仁という言葉を使ってはいるが、要は憎まれ口なので、ろくでもない奴くらいの意味で十分。

巧言令色、なんら卑下することはない。

(訳)
嫌な事があって、お前みたいに巧言で令色なだけで出世した奴なんかにゃ仁なんてねぇーんだよ。そうは言ってみたものの、いや待てよ、そうとは限らんな、なかには仁があるやつもいるかも知んない。少なし仁。

そんな孔子の思いが溢れ出てくるような、そんな言葉ではありませんか。

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