子曰吾十有五而志于学 (子曰くわれ十有五にして学に志す)
三十而立 (三十にして立つ)
四十而不惑 (四十にして惑わず)
五十而知天命 (五十にして天命を知る)
六十而耳順 (六十にして耳に順う)
七十而従心所欲 (七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず)
不踰矩
不惑とは迷いがないという意味に用いられる。
40才にもなれば分別を持つようになった、
迷いなく決断できるようになったという解釈である。
もうフラフラとはしないよ、
40にもなれば自分の進むべき道を決心した。
という解釈でも悪くない。
この場合は決心した事に重きを置き、迷いがない事の比喩にはしない。
さて、これは天命を知る前に惑わなくなった人の言葉である。
孔子が不惑という時、それはまだ天命知る前であった。
これは不惑を迷わないと言うよりも大切な事のように思われる。
僕たちが自分の年を不惑と自嘲する時、そこには幾ばくかの真実が誰の心にも生れているように思われる。
不惑と言うその心の動きは自然と理想像を結ぶ。
心に浮かぶ理想とする存在が、それを君子と名付けるならば其れもありなん。
しかし、それと比較してみるだけが心の動きではないだろう。
自分が不惑となった時、それなりの経験を積んで生きてきた、
それでも不惑なぞ分からない、という思いがある。
この分からなさこそが重要だ。
年を経らないと分からない事がある。
それは、実際にその年になってみないと分からない事だ。
若い時には決して分からぬ事だ、知る必要もない。
人にはいろいろな成長の仕方がある。
飛行機に例えるならば、それは高度を上げることだ。
若いときに高く高く上昇したその先でグライダーのように滑空する、
その高度を維持したまま水平飛行をする、
ロケットのように更に上昇を続ける。
それは人それぞれだ。
誰もかれもがロケットであろうはずもないし、それが大切な事ではない。
自分がどのタイプに成りたいかよりも、
どのように飛ぶかを知っておくのに40はそう悪い頃ではない。
色々な生き方があって、他の飛行機に目をやり、色々と感じる事もある。
不惑、というのは、そうやって、他の人の飛び方を眺める事ができる頃かも知れない。
そして、自分の飛び方と人の飛び方を比べて、自分の飛び方に惑う事もなくなった。
迷いが無くなった、と言っているのではない。
不惑とはそれを受け入れる事ができるようになった、というに過ぎぬ。
そして、それはその年になるまでは分からないという事だ。
孔子は、40になれば不惑となる、と言ったのではない。
40になるまでは、不惑というものに気づけなかったなぁ、と言っているのではないか。
それだけの年を経なければ見えてこないものがある、という告白ではないか。
40になる前にもっと若くして逝ってしまった命がある。
彼は不惑というものを知らずに逝ってしまった。
だとしても生きている私もまた40では天命を知らぬ。
人には生きている限りは見えないものがある。
不惑、命とは年を経るという事で分からぬことだらけだ、それに惑わず、それで十分ではないか。
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