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2017年4月11日火曜日

子を連れて西へ西へと逃げてゆく - 俵万智

歌はいずれもプライベートなものだ。その始まりは誰かに聞かせるためのものではない。しかし歌に促され、思いが種となり発芽し枝を広げる。それは誰かの目に触れないわけにはいかなくなる。かくして歌は人の間で交換される。戦場で死の直前に歌った人もいるはずだ。その歌は残念ながら知られていない。

誰かに聞かせたいという想いは歌の本質ではないが、人の本質ではある。歌はあくまで孤独だ。ただし誰も拒絶しない。私はこう思う。あなたがどう思うかは知らない。

子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え
俵万智『オレがマリオ』

俵万智は新しい歌人だ。なのにこの歌を古く感じるのは何故か。

西へ行く人を慕いて東行くわが心をば神や知る
高杉晋作

笑わば笑え。そんな声が聞こえてくる。それでもう十分なのだ。

世の人は我を何にとも謂はば言へ吾が為すことは我のみぞ知る
坂本龍馬

何から逃げるのか、何を笑われるのか。

もちろん彼女は原子力発電所の事故に驚いて逃げて行ったのである。後悔しないために、不安に押し潰されないように。この事故が逃げられる規模のもので良かった。人類はいつか逃げようのない事故を起こすに違いないから。

安心と安全は違う。ましてや科学は安全の根拠ではない。薬害エイズも水俣病も科学が生み出した。被害の拡散を後押ししたのも科学である。僅かな人々が粘り強く懸命に研究をしてやっと食い止めることが出来た。彼らの功績を我が物顔で語る人のなん多いことか。

科学が常に正しいならば、事故が起きるはずがない。科学の強みは更新する事を厭わない点であって、間違えない事ではない。事故からたった6年が経過した。小学一年生の子供が中学生になる年月を経た。果たしてそれが安心する理由になるのだろうか。

明日、ひとつの柱が折れるかも知れない。その勢いで壁が崩れ落ちるかも知れない。鋼鉄の容器がひっくり返り、水が溢れ、誰も近づけなくなるかも知れない。作業員が避難すれば、崩壊熱は、再びあの悪夢を再開するだろう。

逃げた事を笑えるのは今日の結果論に過ぎない。そして今日と同じ明日が来ると思えるのは偶々である。空が落ちてこないかと心配しても仕方がない。だが空が落ちてこない事を説明できるようになったのはつい最近である。なぜ杞憂を笑えたのか、僕には良く分からない。

昨日も大丈夫だったから今日も安心である。確かに、それが40億年をかけた生物のやり方だ。経験則としては正しい。小惑星が激突しなければ。スーパープルームが起きなければ。明日も生き延びれば。

事故から一年以上経過して伊勢志摩の駅舎でのんびりしていた。その時、初めてほっとしている自分を見つけた。そうなってみなければ分からない感情がある。自分は自分を隠している。

この歌にはパニックを起こすだけの力がある。人々を扇動する力がある。

言葉は世界を動かす。預言者は言葉で世界を変えた。詩や音楽が人々を動員する。人の心を鼓舞する音楽がある。今も音楽が人々に元気を与えている。歌にも同じ力がある。

僕はそれを歌の本質ではないと考えている。それは、歌の力ではない。歌の目的でもない。歌の副作用でさえない。ただ歌の中にも言葉の力が潜む。その力から歌は逃れるべきではないか。ならば、歌というものは意味の通らない音の羅列でも十分ではないか。

「ピポレパス リニキオミマメ ジェリツナチ」

いやいや、これではどうしようもない。ならば意味が歌の本質となるのか。

「子供らと西へと逃げる人々を愚かと呼ぶかノイズの底で」

歌の良しあしというものは歴然である。解釈だの好き嫌いなど全く関係ない。良い歌は良い。一字の違いが微妙だが決定的な差を生み出している。それが積み重なった姿の歌がある。それは何かを隠すような仮面を付けている。

「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ、紅旗征戎吾ガ事二非ズ」と定家が語ったように、国の政策など知ったことかと彼女は言いたかったのかも知れない。それが彼女の母心である。

親思ふこゝろにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん
吉田松陰

彼女はもちろん、愚かと呼ばれる事など百も承知していたし、そう歌に書いた。愚かなのは歌人であって、歌ではない。おそらく初めから人間の情感など下らないのである。人間の言葉など愚かなのである。歌だから話が変わってくるのである。

歌人を黙らすなど容易い。歌人から言葉は奪うことも容易い。だがそれが歌を殺した事にはならない。歌が生まれようとするのを止めることは誰にもできない。もし人間を家畜のように飼いならしたいのならやればいい。それでも国が存続できると思うならやってみればいい。

国家を失えば我々はどうなるか。これが明治時代を覆った恐怖である。19世紀の先人たちが混乱の中で掴み取ったものが日本の行く末に色濃く影を落とした。

ロシアという北からの脅威は、日露戦争の結果を持っても払拭する事は出来なかった。一国でその脅威と対峙する事が日本の採用した方針であるし、そのためには軍事化を進めるしか方法がなかった。もちろん、それはいびつな戦略しか生まなかった。長期戦を戦い抜く資源も予算も持たない日本は、短期決戦に特化した軍隊を育てる。長期戦を戦う戦術も戦略も持たず、それをカバーする外交能力も育てなかった。

結果的に、日本はアメリカと同盟する事によって初めて北からの脅威から解放されたのである。明治からの命題を解決したのは、日本ではなかった。アメリカとの同盟であった。我々はアメリカと同盟するためにあれだけの戦争が必要であったという事だ。

なぜ戦争に負けた事で、問題が解決したのか。一般的に、戦争に負けて問題が解決するはずがない。だが、日本の場合は、敗戦によって問題が解決した。というか敗戦以外の方法ではそれは達成できなかったであろう、とさえ思える。

という事は、あの戦争の勝利に求めていたものと、敗戦によって手に入れたものは全く違う何かであるという事である。アメリカとの戦争に勝利、または早期講和した所で、北からの脅威がなくなるわけではない。日中戦争が停戦するわけでもない。なにひとつ国際環境は変わらないはずだ。

何を目的とした戦争であったか。アメリカからの干渉を排除することであって、それを達成したところで問題は何も変わらない。日本の基本戦略は、アジアの独占であったが、もしアメリカと仲良く大陸の利権を独占しあえば戦争など起きようがなかったのである。よって日本の間違いは独占しようとする勢力であったし、その勢力は戦争に勝ってもいなくならないが、敗戦することでいなくなった。

平安時代の豪族たちが幕府を開いたように、大名が倒幕したように、この時代は海陸軍の官僚たちが豪族気分で覇権を争っていた。関東軍が好き勝手するのを梅津美治郎が赴くまで止められなかった。

そういう状況にあって南北朝時代の豪族たちが争うように官僚たちが争っていた。あの戦争に外征の意図などない。大陸に赴いただけの内乱である。やろうとしたことは利権の獲得であった。その過程で船が遠くまで進み、飛行機が遠くまで飛んでいっただけの話である。

そういう豪族たちを縛り首にするためには戦争に負ける以外の手はなかった、という話である。だから多くの国民には、何が悪いかなど心底分かってはいなかったし、今だって何が起きたかは分かっていない。

あれは豪族たちの争いであって、その片手間でアメリカと戦争したのである。世界は大転換期にあって、あの戦争によって世界は大きく変わった。日本が残した理念の中に、その後の世界まで残ったものはない。大東亜など、日本のブロック経済圏を作りたいだけの方便でしかない。

焼夷弾にどれだけ焼かれても、あの戦争は日本の何も変えなかった。それでも戦争が終わり、それまで寡黙にしてきた人々がいた。黙って処した人々がいた。子を失い親を友を失っても黙って処した人々がいた。

歌が残っていたから倒れすに済んだのだと思う。歌を忘れたカナリアはどうやって歌を思い出すのか。最初から忘れてなどいなかったのである。滅亡の瀬戸際で黙って歌っていた人々が居た。

廃墟の中で連綿と続く歌が残っていた。万葉の時代から紡がれてきた歌が、歌集を編み続けてきた祖先の筆のひとつひとつの所作が残っていた。歌などいらないと思う人はブロイラーを見てよく整列された人々と自慢するに相違ない。人間は過ぎ去る。そこに巨大な外骨格が残る。そこから歌が聞こえるならば、それはまだ生きている。

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
古今和歌集序

歌も言葉だから強い感情を含んで当然である。その力を利用すれば戦争だって起こせる。そういう力に警戒するのは当然であろう。同時にそういう歌でなければ私の感情を託せるものではない。

唐衣 裾に取りつき泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして

防人歌を当時の為政者は警戒しただろうか。歌を禁止したという話は聞かない。

山形へ向かえば外は雪景色あきれるほどの美を見せつけて
人生はあとどれくらい 横風に耐えて飛行機着陸態勢
俵万智『オレがマリオ』

私の中から湧き立つ歌で滅びるくらいならさっさと滅びよ。歌はこの国を豊かにこそすれ、滅ぼすはずがない。それで滅びるくらいなら、最初から滅んでいたのだ。残骸ならば今更惜しむ必要などない。

軍が残ることよりも、社会があることよりも、歌を信じる。順序はそうあるべきだから。

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

この歌にどんな意味もない。意味はないのに風景がある。この短歌には匂いがある。缶チューハイに何の意味もなさそうなくせに、匂ってくる。酔わなければ言えないくせに、詰まらない人。

うれしいと思う彼女など表層の風景だろう。もっと深いものを感じている彼女がいる。それを手繰り寄せたいが缶チューハイしかない。彼女の心の蓋は重く閉まっているようにも見える。言いたい事は何ひとつ語っていない。その隠したものを缶チューハイに託している。

後からなしなんて言わせないわよ。たったの二本の軽い酒で酔ったからなんて。でもね、私はあなたの本当の気持ちも知っているのよ。

焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き

ひめゴトの歌。なのにグラタンの味だけがする。

一生秘めておけば良いものをわざわざ歌にするのは何故か。バカでなければ、よっぽど顕示欲が強いのか。何と張り合おうとしているのか。なぜその少女を狩ろうとしているのか。

目の前の少女に向かって今すぐにでもこの気持ちを言ってしまいたい。そんな感情がある。だけれどもそれは言えない。もちろん。私は大人だから。そう心のなかで呟いた言葉を、なぜ歌にしてしまったのか。

この歌を少女が読むことをどう考えたのだろうか。そのせいか、この歌は声を出さずに読まれている。少女に向かって何も話しかけてない。喧騒と沈黙がよく似合っている。

だが文字になればこの少女に読まれるではないか。するとこの歌はずっと発表されずに残されているべきだったのかも知れない。

なぜ歌人は少女に向かって語れないのか。もちろん、少女が許してくれない事を知っているからだ。だから、この歌は許しを請う歌なのである。もしこれが告解でなければこの歌にどんな価値があるというのか。少女にさえ優越感を感じている自分を恥じるようでなければ、この歌のどこに魅力があるというのか。

主演は私です。監督も私です。だから主演した私は嘘つきです。この歌は嘘をついている。だから、本人も少女も消え去ってしまわなければ歌とは言えない。

歌はウィルスのようなカプセルである。誰にも読まれていない時、それは空疎な音の羅列のままある。人の心にインストールされて初めて歌の姿を現す。だから、歌の感情は、もう歌人のものではない。

とまれ、

現代短歌は発情している。この情事を歌うことが現代短歌の特徴だと思う。艶やかな歌はどの時代にもあっただろうか、この時代のものは一味違う。そこにこの時代の背景性がある。ライトノベルや BL 小説の台頭も同じ流れにリンクされている。

しんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ
河野裕子『ひるがほ』

なぜこの時代にこういう歌が本流となっているのか。そこにあるものは肉体の再奪取だろうと思う。

我々の社会は徐々に肉体性を失いつつある。なぜそうなっているのかは知らない。科学が我々の歌にも影響を及ぼしているのは確かだろう。

現代の人間観というものは脳髄を培養液に浸し適切に電極の刺激を与えれば全ての感覚も感情も自由自在にできるはずと言うものである。人間など電極によって刺激された興奮の総和に過ぎない。それに対するカウンターパートとしての肉体。その奪取のために歌が選択された。

身体の希薄さを奪還しようとするのは当然だと僕は思う。生も死も肉体から切り離されて On/Off の情報として扱う社会が到来しつつある。それに反逆するための足掛かりは「性」である。というより、それ以外に肉体から失えないものなどもう残っていない。この豊穣な社会で肉体性は縮小しつつある。

「コレ下の娘です」父が語るとき我はいまでも小さきままで
通り魔を宿して私、夕まぐれ ナイフをもってなくて良かった
あ この人 優しい すごく ふつふつとカルピスサワーのように泡立つ
山口文子『その言葉は減価償却されました』

言葉には感覚を叩き起こす働きがある。だが感覚だけでは歌ではない。音を整え言葉を整え。歌の形がある。言葉では足りない。感動だけでは歌にならない。だから、この言葉を歌にせよ。

恋しけば形見にせむとわが屋戸に植えし藤波いま咲きにけり
山部赤人

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