それは驚きから始まる。
相手を見た瞬間に驚きが心を打つ。もしこの一瞬に予感を感じなかったならそれは恋ではない。
はっとするような美しさ、声、仕草、眼差し、そのひとつひとつが予感を確信に変えてゆく。まるで潮が満ちて月明かりが海底を照らすようにはっきりと心の中で形になってゆく。心臓は鼓動を速め血流が早くなる。もう相手以外の何も考えられない。
気付くともう戻れない。意識の前に恋は始まっている。体は既に準備を終えている。私は最後に知る。恋に落ちましたと。
驚きから始まりどれだけの時間が必要だろう。体の中で生理物質や伝達物質が最大最速で放出されている。心がドキドキする時にはもう引き込まれている。
人間には、自分を守るための、他人との必要な距離がある。話せることなら何でも話せる友人から気を使い話す間柄もある。
恋はそういう全てを突破する。もっとも遠い所から、あっという間に近くに居る。如何なる運命も必然も必要ない。それ以外は考えられない、ただひとつの、ゆいいつの関係性が生まれる。
それでも恋には幾つかの段階がある。それは時間的溶融とでも呼ぶべきもので、空間的、時間的、社会的な共有を通して進む。
偶然の出会いだけでは恋にはならない。どれほどハッとする出会いでも通り過ぎるだけではその先はない。空間を共有するだけでは足りない。同じ時間を共有しなければならない。その時間が長くなるほどそれが恋になる可能性が高くなる。
時間の共有だけでは立ち枯れてしまう。その次に社会的な繋がりが必要になる。社会的な繋がりとは、別れた後にもういちど出会う可能性の事だ。
空間を共有したことの驚き、時間を共有したことによる予感、社会的な繋がりによる確信。出会い、再会を予感し、再会が実現する。その時に恋が確実なものとして始まる。
恋と愛は明らかに違う。恋は肉体的なものだ。精神よりもずっと生命的なものに根差している。恋ほど私という存在を意識させるものはない。それは自己を認識してもらいたい強い渇望だ。
その欲望を満たすためなら死んでも構わない。恋とはそういうものだ。それは、最高のパフォーマンスをすることが相手から高い確率で認識を貰えるという自己顕示欲と承認欲求が一致する戦略を採用しているからだ。
では自己認識を求める相手はどういう人(物、観念、創作物)であるか。そこに自分の中の何かの投影がある。
恋には必ず条件がある。その相手でなければならぬ、それがすでに条件である。なぜその相手でなければならぬのか。それは説明できぬだろう。なぜ好きなのか。その理由は見つからないだろう。理由があろうはずがない。なぜなら対象は自分の中にある。自分を好きなのに理由を見つける必要があるだろうか。
恋は個人的な肉体的な所から始まる社会との接点である。それは相手との関係のなかに自分への認知を求め、それが自己の社会とのつながりを確立させる。人間とはセックスを通して社会に参加する動物だ。セックスには社会と自分の関係性が射影される。
人にある様々な性癖はどれも社会との関係性から説明できる。如何な異常性癖も社会との関係性からの異常であり、社会からの禁止や抑圧に対する反応として解釈できる。
なぜその相手なのか。まずは肉体的な魅力がある。抱いた時に感じられる筋肉や骨の感じが恋の理由になる。抱き心地がいい大きさはそれだけで恋の理由になる。
更に社会的通念もある。健康とされる容姿であったり、地位、ステータスが恋の理由になる。こんな相手といる自分という存在を認知したとき、それが社会的な自分の立場となり、それが恋の理由になる。
頽廃が社会的な罪悪感を心に生じさせる。その罪悪感を乗り越えることで社会との結びつきが強化される。その認識が恋の理由になることもある。
社会との様々な関係性が、DNA の本能の上に複雑に絡みあう。なぜ魅かれるのかは誰にも分からない。なぜかくあるか、それも分からない。
自分がどう動くかではなく相手がどう動くか。こうであればいい。こうして欲しい、こうなったら嬉しい。相手に願望するしかない。それは神への祈りにも似ている。自分以外の誰かに選択権があるという状況に置かれた人間はどう向き合うべきか。恋が私を裏切るなら、神も裏切るはずである。恋を失っても生きねばならぬなら、神を失っても生きねばならぬはずである。
僕は遠い過去に戻った。仏壇のある奥の部屋で真っ暗な天井を見上げながら思い返していた何か。遠い過去に見たラ・ブーム。そして気付いた。
僕はあの時からずっとソフィーマルソーを追いかけていたのだ。あの日に僕の中に生まれた何か。僕はずうっと恋の中にソフィーマルソーを探していた。それはソフィーという実在する人間とは何も関係ない。何かに対面した、その何か。
ソフィーに、あの日に見たヴィックの姿に。
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