stylesheet

2013年2月25日月曜日

日本の選挙、北朝鮮の核開発、中国の台頭、アジアのこれからとイデオロギーとその空隙について

日本の政権闘争とはばらまく先を変える戦いであり、極めて内政的、もう少し言えば鎖国的である。税の再配布を極めて完全に公正にする方法はない。だから政治は苦悩の割り切りである。誰かに笑ってもらう為には誰かに泣いてもらう。誰を泣かすかを決めるゲームに過ぎない。だから順番に泣こうじゃないか、というのが民主主義であろう。フェアとはそういう事だ。

民主主義では投票が唯一の権利だ。その権利を失えば民主主義ではない。自発的に行使しない、棄権する、無視するのは、権利の放棄であるから民主主義から追放されたに等しい。民主主義では放棄する自由は与えられているが、その権利を担保するのは国家である。基本的人権も財産権も労働基本権も身分権も革命権もそれは国家が担保する。国家を失えば権利は雲消する。権利を他から蹂躙されないように国家は存続する必要がある。では誰が国家を守護するのか。守る主体が王であれば王政でろうし、国民であれば民主主義であろう。投票をしないのは数の 0 と同じである。どんな数に 0 を掛けても 0 である。投票しない者が何人集まろうと 0 である。民主主義は 0 の意見は汲み取らない。棄権とは権利を道端に放置したのと同じだ。いつか誰かに盗まれるかも知れないのに。

アメリカがふたつの政党で政策の違いを争うのは解かり易い。だが日本の政党には対立軸がない。これはイデオロギーの有無から来ていると思われる。政治は未来に起きる事を投票によって今決める行為だから、未来の行動を先に購入するのと同じだ。しかし未来は変わりうるから今の時点で未来を決める事はできない。だから未来の約束は信用ならない。今の約束が未来に破られると言う事を民主党が示したとも言える。だから未来の行動を約束してはならなかったのだ。彼等はイデオロギーか、もしくは原理を示すべきだったのだ。具体的な政策は未来の変化を担保しない。未来が変わっても原理は変わらない。民主党の大敗は政策で勝ち取った時に既に約束されていた。彼らのしたことは真っ当だったと思う。政策を示し、スケジュールを示した。ただ変化を、変化する時の原理を語らなかった。語らないのではなく、それがなかったと批判されても甘受するしかあるまい。

原理とは真っ直ぐにしか走れない車のエンジンである。だからハンドルがいる。原理しか持たぬのは愚かしいが、原理を持たぬ事も愚かしい。エンジンのない車、操舵機のない車、ブレーキのない車、どれも愚かしい。

正しいから実現されるべきというの正しいのだろうか。'べき'と言うならそれは他人への強制に他ならないのだが。

自分の正しさを信じるのは構わない。だが其れはこれから何かを掘り出す場所に過ぎない。その正体は掘り出してみなければ分からない。正しさとは掘り出す場所を示しているだけだ。そこから何が掘り出されるかは分からない。人はどうして自分の正しさを人に強要するのか。なぜ堀った穴に誰かを落とすのか。それはその上に立つ王になりたいからではないか。


江戸時代は安定した毎日を繰り返し生きた時代だ。天候や病に翻弄されるながらも世界は永劫に続くと信じた時代だ。親から子へ受け継がれることを疑った人などいやしなかった。それが明治になって何かが変わった。国民は熱狂した。科学はついに永劫という思想を剥ぎ取った。我々はこうして海外から持ち込まれた何かに罹患したのだ。

我々は敏感にも世界の中で自分達の存在が絶対に必要と思われていない事をどこかで知っている。同様に我々もどこかで世界を必要としていない。信長が見た世界とは征服する対象であった。秀吉が受け継いだものも同じであった。我々はそれ以外に世界というものを知らない。

我々が知るべきなのは外国とは何かという思想である。これが明治以降から続く課題である。それは幾度の戦争を経た今も変っていない。我々に必要なのは外国とは何であるかという定義。その延長に西欧とアジアがある。地球という星がある。そこに人が住む。我々はその中で戦争に勝ち、負けたが、勝つ時もあれば負ける時もあるのは必定だ。どの時代であれ完全な勝利などない。重要なのはそこから跳ね返し先に進む力があるかどうかだ。


北朝鮮が核実験を行った。これはバラク・オバマ大統領の一般教書演説に向けた計画的な行動らしい。アメリカへのメッセージであると言う。アメリカと中国が対立している状況にあって、朝鮮半島は地政学的にも重要と思われる。

もし韓国が朝鮮半島を統一した場合、大韓民国は一時的とは言え核保有国になる。このアドバンテージを手放さないというオプションは韓国が持つ。対米関係や核不拡散の観点から見れば廃棄する可能性が高いが、保有を継続するという決断をするとしたらどれはどういう時か、日本はどう動くかを検討しておく事は無駄ではない。

しかしその前に北朝鮮の消滅というシナリオについて考えておく事も重要と思われる。そのシナリオを中国が許すかどうかだ。北朝鮮は中国にとって重要な軍事的緩衝地帯に位置する。北朝鮮がなくなれば国境のすぐ隣りに米軍がくる。これは中国からすれば受け入れ難い状況であろう。それを許す訳にはいかない。そうならぬように中国は決して北朝鮮を見放さなぬし、コントロールするだろう。

毛沢東の「唇亡歯寒(唇なくば歯が寒い)」である。

北朝鮮は東アジアにおける最重要緩衝地帯にある。北朝鮮を失う事は緊張の高まりに直結する。それを彼等も知っているとすれば、その状況を利用して外交を組み立てるに決っている。だがそれは彼らの不幸でもある。各国は北朝鮮が裕福になり過ぎる事も、消滅する事も許さない。生かさぬよう殺さぬようとはこういう事か。彼等はその中に均衡する点を探し国家の独立を勝ち取っている。その為には国民を豊かにしたいという考えも許されない。核兵器というカードはその対価だ。それ程までに彼らの手持ちのカードは少ない。


かつて金もなく石油もなくまともな兵器もなく勝ち目もなく竹やりで爆撃機を落とそうとした国民がいた。もしその頃、核を持っていたなら、彼らは何ら躊躇せずそれを使ったであろう。滅ぶなら諸共と道連れを選んだかも知れない。北朝鮮が核兵器を使う相手としてもっとも選びやすいのは日本である事をもっと自覚していい。彼等が同じ民族の南朝鮮や宗主国である中国や巨大なアメリカに使うとは思えない。しかし相手が日本ならば。


尖閣諸島の問題で中国との関係が先鋭化している。沖縄の重要度はますます高まる。沖縄は日本、アメリカ、中国の思惑が交叉する地点だ。鳩山由紀夫の失政から沖縄県は態度を硬化した。彼等はそれを No で返した。これはかつての社会党が選らんだ方法だ。要求を受け入れよ、叶わぬならば何にも応じない。詰まり現状を維持せよという主張だ。それで全ての人が説得できる。それをお互いに分かり合った上で演じているわけだ。

鳩山由紀夫という最も無能な政治家と対話した事がひとつの不幸であった。だが沖縄は自分達に最も歩み寄った政治家に石を投げ追い返したとも言える。見返りよりも追い返す方を選んだ。沖縄は彼にシュプレヒコールをぶつけた。それは暗黙ながらも現状を Yes としたのだ。

緊張の行く先で日本は中国と交戦するのだろうか。偶発的に戦闘が発生する可能性はある、それが戦争にまで拡大する可能性もないとは言えない。起きにくいとは起きないの意味ではない。では両者は何を目的として尖閣諸島の問題を先鋭化しているのか。

日本に脅威を与えれば、日本が軍事化し、暴走するのは明らかである。ならば中国は日本の軍事化を望んでいると言えるか。彼等が日本の軍事化を目的として行動するとは考えにくい。ならこれは中国の内政問題ではないか。彼等も何かを抑え込まなければならない。そのために緊張を必要とする。ならばこれはお互いの内政問題の対立だ。相手の顔などを見ていないのであるから、状況は極めて危ういと言える。さて、外国とはお互いにとって何であろうか。

日本はかつて中国と戦争をした。日中戦争の遠因はロシアの南下であったが、それで中国を相手にした理由にはならない。アジアはどの時代も中国を中心として動く。冷戦という米ソの長い対立で忘れているかも知れないがアジアの中心はいつも中国であった。

冷戦の終了はイデオロギーの終わりでもあった。その次の新しい価値観が必要であったが何も生まれなかった。経済というものが世界をひとつにするかに見えたが、それは世界を破滅させかねた。イデオロギーとは集合する力であったか。イデオロギーとは利益で結びつく人々の別の顔に過ぎないか。イデオロギーは利益の前には無力だ。利益の前でイデオロギーは姿を変える。イデオロギーは常に正しそうなものであり、正しいものではない。どちらかに歩むときそれを決めるものだ。ならイデオロギーもまた信仰の対象であり、それは宗教から生れ出たのかも知れない。


帝国主義の時代、日本にとってロシア南下が最大の課題であり、西南戦争でさえ、対ロシアを巡る政策の対立であった。日露戦争の勝利後もその課題は消えなかった。この問題が決着するのはアメリカと同盟を結んだ時だ。そのために日本はアメリカと戦争したとも言える。アメリカが共産主義と全面対決した時、日本はアメリカと対ロシア軍事同盟する事でロシアに対抗した。これで問題は解決したように見える。我々が長く悩んだ問題をアメリカが解決した様に見える。本当に脅威は消滅したのか、それとも単なる休眠であるか。

長い時代、日本はアジアの野蛮国であった。そして敗戦国になった。その刹那の輝きが落とした影もまた暗い。僕たちは忘れているが、どうやら日本的な厭らしさというものを太平洋のあちこちに落としたのである。

感謝よりも憎しみの方が強く残るものである。強者は決して弱者を敗者とは呼ばない。我々は勝者のつもりでいる。だから敗者が理解できない。我々はアメリカに負けたのであってアジアの敗者に負けたのではないと今も思っているらしい。そんな我々を外国がどう見ているか知らないでいる。我々には明治後期の日本人が朝鮮や中国人を軽蔑したような厭らしさがある。それも西洋から入ってきたと思われる。

我々が終わったと思っている戦争が、まだ終わっていない人がいる。そこに残ったものは言葉や態度では洗い落とせない。いまもアジアを取り巻いているのは屈辱だ。もしかしたら中国や韓国は、もういちど日本とやらせろ、次は負けない、という想いがあるのかも知れない。西洋の台頭に対抗するアジアという構図はまだ終わってないように思われる。

アジアで最後に勝ったのは日本である。中国も、韓国も勝ったとは思っていまい。それが深層に流れるアジアの状況であろう。この三国はどういう形であれ西洋の植民地化を切り抜けた国々である。


おそらく戦争はまだ終わっていない。最初の対立があり、同盟があり、戦争があり、この流れは続いている。戦争が終わったからと言って、そこで途切れるような流れではない。国内だけを考えていたらそれが分からない。この流れの中心をアジアに置くべきである。そうアヘン戦争以来、日本では馬関戦争以来、西洋が持ち込んだアジアの混乱は、中国の台頭によりやっとアジアらしさを見せ始めたのである。ようやく、イギリスが来る以前の状況に立ち返れるのである。

これから。

いまもアジアで起きている事は、西洋と東洋の対立と言えるかも知れない。それは価値観の融合の過程ではないか。西洋的なものとは、帝国主義後の人種差別に顕著に表れる。彼等は見た目や形の違いに気付き、それを乗り越えようとする。東洋は、人種の違いというものがない。日本には人種の違いはない。が同じ顔をしていても生まれで差別する。この国を単一民族国家と思ったり多民族国家を目指すのも、これは実に西洋的な考えかと思う。東洋は民族の違いに価値を置かない。我々は日本という共同体を作るのに見た目にはとらわれない。もともと雑種の集まりであり既に多様な民族の混血なのだ。だから見た目や形では区別をしない。東洋的なものは、見た目や形ではない違いに注視するようだ。

この国には単一民族も多民族もない。日本人として参加する条件は何であるか。日本以外を外国と呼ぶのならその違いは何か。何が彼我を分けているのか。出生に重きを置き族や氏の繋がりを重視するが、渡来人という呼び名で参加している人もいたし、同族でも対立するのであるから、それは決定的な価値観ではなかった。

近代以降のアジアには東洋と西洋の慣習の違いからくる対決が起きた。それを早く西洋に切り替えた日本とまごついた支那、朝鮮との戦いでもあった。だから最初に日本が有利になったのは自明である。ルールを知らないものを土俵にあげて、西洋のルールで一方的に勝った負けたとやったのだからそれは恐らく東洋的な公平さではない。

勿論、厳しい見方をすればあの状況で能天気だった方が悪いのである。それを仕方がないというのは西洋的価値観であろう。一方で東洋の価値観に照らせば、それは悪質なのだろう。一言でいえば礼を失している。我々は戦争の謝罪を今も求められているのではない。西洋的なやり方に対して東洋的な礼を求められている。東洋的に解り合いたい、というのがその根本ではないのか。

これは日本にとって明治維新以来続いた大掃除のやっと辿り着いた最終幕と理解する。我々がこの百年に費やしてきたものは、極めて重要な事であり、それを世界が必要としたのだ。西洋的なものをどう取り込むかは、何も東洋だけに限らない、やがてアフリカの人達にも必要となる事だ。それは西洋に塗り替える事ではなく西洋と統合すべきものだ。つまり、西洋もまた西洋的なものをもう一度受け入れなければならない時期が来ると言う事である。更に乱暴に言えばそれを科学的なもの、単一価値的なものと歴史的なもの、多様価値的なものと呼べるかも知れない。

この東洋でそれをまっさきにやる。そう思えば、中国、韓国、日本の対立、東南アジアとの関係、アジアで争う理由は明らかではないか。これは各国の存続や自衛や利権の為の争いではない、遠く、この世界を統べる新しい思想が生まれる最初の一歩になるのだと信じたい。

まことに日本と言う国は、良い時期に極めて困難を引き受ける命運の中にいる。この恵まれた体験を面白いと思わない人には本懐がない。

0 件のコメント:

コメントを投稿