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2013年2月11日月曜日

鉄人 28 号 異譚 -あらすじ-

もうひとつの 28 号機があったことは一般的には知られていない。それはわずか数人の記憶にだけ残るものである。

終戦間近、鉄人 28 号と設計を同じくする同型機が存在した。それらは最後の決戦兵器として製造された機体でありもうひとつの 28 号である。急ぎ組み立てられたその機体は沖縄戦に投入された。開発者たちはその機体を、鉄人乙兵器と呼んでいた。戦後、金田正太郎により操縦されたものは、鉄人 28 号の完全体 (鉄人甲型) である。

乙型は実戦への投入が急がれたため幾つもの点で甲型と比べて未完成である。それでも基本設計が同じであるため当時としては桁外れな性能を発揮した。乙型は空を飛ぶ事もできないし無線操縦も出来なかった。そのため操縦装置は有線で鉄人の機体内部に取り付けられていた。操縦者は鉄人に乗り込んで指示を出さなければならない。当時、既に多くの若者が特攻兵器で空に海に陸に散って行っていた。鉄人の中から外を眺めていたパイロットは散ってゆく戦闘機を眺めながら、それでも自分の任務を遂行したのである。

鉄人甲型は戦後の日本で警視庁の管轄のもと治安のために活躍し鉄人 28 号として広く膾炙するのであるが、乙型については、政府の公文書はもちろん、CHQ の資料からも知る事は出来ない。その存在を知るのはわずか数名の日本政府高官と GHQ 幹部たちであった。そして日本が戦後の平和な時代に繁栄を築くにつれ忘れられ、そしてそれを知るものも死んでいったのである。

この物語は、当時、鉄人の整備兵をし彼等とともに戦地で苦楽を共にした人から聞いたものを基にしている。彼は、戦後は浮浪者としてひっそりと過ごし、そして死んでいった。


1945 年 3 月 26 日から始まった沖縄戦で鉄人乙型の投入は予定より遅れた。当初の予定では海軍による大和特攻作戦で沖縄に運搬するはずであったが鉄人の完成が遅れたため海軍は単独での突入を決意した。歴史が示す通りそれは早い段階でアメリカの知る所となり沖縄に遥か遠い海の上で大和は撃沈された。

日本陸海軍は鉄人の沖縄上陸の困難さを思い知ったが、鉄人が完成した 5 月、鉄人は遂に海軍の潜水艦に搭載され秘密裏に沖縄上陸を目指す事になったのである。沖縄では既に首里も陥落し鉄人による起死回生も危ぶむ声もあった。しかし甲型の完成のためには沖縄戦の完了を遅らせたい大本営からの強い要請があったのである。

5 月 12 日、鉄人を積んだイ号潜水艦は静かに日本を出発した。しかし沖縄本島に辿り着く前にアメリカの駆逐艦に発見されてしまう。よく戦ったが、ついに沖縄上陸を果たせず潜水艦は沈没するのである。鉄人も沈みゆく艦と運命を共にするかと思われたが、船員たちの決死の行動により、鉄人は隊潜水艦の腹を切り裂き、脱出に成功したのである。潜水艦の残骸を後にし鉄人は海中を歩きながら遂に沖縄に辿り着くのであった。

沖縄まで海中を歩いて移動した鉄人は、米艦隊が取り囲む海中から砂浜に上陸した。なみいるアメリカ陸軍を踏み潰し、砲撃してくる米戦艦隊に対して単騎蛮勇の活躍で何隻もの戦艦、空母、輸送艦を撃沈。全ての軍艦の攻撃の的になるともそれを跳ね返し、空母に飛び移っては、艦上のグラマンやドーントレスを投げ飛ばした。

しかし、全てのアメリカ陸海軍を撃滅する事はかなわず、その盤石な装甲も次第に破壊され始める。ついには燃料が残り少なくなり、止む負えず鉄人は退却した。撤退した鉄人は日本陸軍第 32 軍に合流する。そこで燃料を補給しつつ何度かの抗戦を試みるのだが、次第に燃料も尽きてゆき、勝敗も決定的になった。遂には最高司令官牛島満中将から呼び出され、鉄人は最後の燃料を積み、日本への脱出を厳命された。

仲間たちを見捨てて逃げる訳にはいかないとパイロットは強く主張したが、本土決戦において乙型が必要になるとの説得を受け、第 32 軍の壊滅を待ち沖縄脱出を決行する。脱出に同行した八原博通大佐が鉄人を逃がすために身代わりとなって捕虜になってしまう。本人は死ぬまでそれを語らなかった。

しかし本土に戻った鉄人に次の戦いはなかった。終戦である。甲型もこの時点では完成していなかった。戦後 GHQ からの追求を逃れ、アメリカに収容される事もなかった。どうやって GHQ の手を逃れ、隠しおおせたのかは謎である。マッカーサーと吉田茂との間で密約が交わされたらしい。

その後の乙型の運命は過酷であった。彼らの戦いはそこで終わらなかった。GHQ はソビエトの南下を食い止めるため極理に鉄人乙型を召集し中国大陸に送りつけたのである。アメリカと戦うために生き残った鉄人はアメリカの為に戦う事になったのだ。結局、それが朝鮮戦争の遠因となるのであるが、ソビエト南下を食い止め、奉天にてソビエト軍基地の破壊を決行したのである。この作戦の成功によりロシアは数年の立て直しを必要とする事になった。その間に GHQ は日本を建て直し、朝鮮半島で起こるであろう戦争への準備に成功したのである。

乙型の最後を知る者はいない。最後は補給も絶たれ、残った燃料で雪山へと消えて行ったと言う。GHQ や政府関係者も最後は彼等の存在は闇に葬るつもりがあったようである。パイロットはその事に気付いており整備士に別れを告げひとり鉄人に乗り込んだ。生きている事が発覚すれば殺されるかもしれない、刑務所や精神病院に隔離される可能性もある、と恐れた整備士はひっそりと日本に戻り、浮浪者として自由に生き抜いたのであった。

森やすじと酒を酌み交わした事もあったそうである。


甲型の活躍はみなにも広く知られる処であるが、その最期を知る者は少ない。その人は金田正太郎少年と一度だけ会った事があるそうだ。その時の彼は、戦いに疲れ、連日の戦いの中、ヒロポンを打ちながら鉄人を操っていたそうである。金田少年の健康を気遣ったのであるが、彼は何か執念に取りつかれたように戦うことを止めようとしなかったそうである。鉄人を開発した敷島博士は何かを忘れたいかのように研究に没頭し、ついには精神を病んでしまった。金田少年に父親代わりの愛情を注いだ大塚所長は、しかし国からの冷酷な要請と病んでゆく金田少年との間で板挟みとなり遂には自殺してしまう。戦後の混乱期を精一杯生きた彼等であったがその運命は辛く悲しいものであった。

しかし、彼等の悲しみの血の涙の上に今の繁栄がある事を忘れてはならない。

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