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2013年1月28日月曜日

我々は殺人罪方程式を手中にできるか

罰則というものは古くウル・ナンム法典まで遡る事ができ、その成立は更に昔であろう。根源的には群れる動物には共通の規則があるように思われる。罰則は群れを成立させる力のひとつであろう。人間以外の動物でも制裁は上位にある者の特権である。

罪とは何にか、罰とは何か。これを考えたければドストエフスキーが必読かもしれないが、ともあれ罰則は社会と個人だけの関係に止まらない。罰は神と人間の間にもある。罰則は人間の社会だけでなく神との間にも存在する、言い換えれば神の概念が無ければ罰というものは生じないのではないか。

(罪とは何にか、罰とは何か)

社会は自殺とも関係する。自殺は罪悪感からではなく孤立感から起きる。自殺は疎外された証拠でもある。淋しさは人を殺すと言ったのはキルケゴールであったか。自殺してしまえば社会から報復されずに済むのである。こうして自殺さえ社会との繋がりのひとつであると分かるのである。自殺とは報復や孤独からの逃亡であり集団と今の形で繋がっていたいという最後の抵抗ではないか。決して許されないであろう、だから疎外される、そして孤立する、それには耐えられない、このアノミーが自殺の原因であるか。

(絶望が死に至る)

罪も罰も神も自殺も社会との関係として捕える事ができる。それらは人間が生み出した自然な概念ではないか。社会との対立、社会からの報復、社会以外の別存在、社会との固定化、という様な関係の表出として見做しても良いのである。


刑事法では量刑は慎重に定められなければならない。我々の知る最も古い量刑はハンムラビ法典であろう。この有名な報復の原則を定めた法典はその名ほどには人々にその意が知られていない。

目には目で、歯には歯で

この法典は報復のやりすぎを制限するために定められた。更には報復よりも損害の補償を推奨する。理不尽な犯罪に対しては人間には復讐する権利がある。これをを認めない法体系などありえない。しかしその前に立ち止まり考えてみて欲しい、それがこの法典を作った人達の真に訴えたい所であろう。

同じ程度の刑罰を受けさせるか、同等と見做せる金銭により賠償させるのか二つの道がある。出来るならば穏当な決着にして欲しい。しかしどちらも復讐には違いない。許すとは忘れる事ではないし、復讐を諦めたものでもない。許すとは復讐の別の形だ。それは私はお前を忘れるけれどお前は私を忘れるな、という脅迫だ。

誰だって重たいコートをずっとは着ていられない。そしてどんな事でも次第に忘れてゆく。だが社会的な自分が忘れるなと脅迫する、だから個人として許す形がある。復讐を野蛮と言うのでは考えが足りないし人間への考察も浅いのである。

我が国に古くからある自然な情を考えれば我々には仇討を禁止する理由がない。我が国の刑法は仇討の代理である。例え法律上は違うと言えどもそうでなくては心情が通らぬ。明治時代に仇討を禁止したのは反乱を禁止したのと同じ理由に過ぎない。武を武士から取り上げ国に帰属させたのと同様に、この権利も国に預けさせただけである。だから敵討ちを禁止した事はあっても、これを捨て去った事は一度もないはずだ。

(三日の掟破り)

しかし人の理りとしてただの殺人と唾棄すべき殺人とでは量刑が変わるのは当然の要求である。ではどのように変えるべきなのか、昔なら当人の気の済むまでと言えた復讐劇も、民主主義の世の中では公平でなければならぬ。だから量刑には一票の格差と同じ様に算出式があるはずなのだ。

殺人には重みがあると言う事は、人命は地球よりも重いとか誰れの命も平等であると言うよりもよっぽど深刻だ。目の前で起きた事件をどう裁くかは目の前の実務である。命の重さも平等さもそれと比べればずっと空想的で考え込む余地が残っている。

殺人も単位を決めるべきだと思う。ひとりが誰かひとりを殺すのを 1K とする。しかしそれだけでは 1K には与えた恐怖や苦痛が含まれていない。そこで 1K となる基準の殺人を決める。それに人数や苦痛などを代入する事でどの程度の殺人であるかを数量化するのである。仮りに 1 秒で 1 人を苦痛なく殺す事を 1K と定義する。

1K = 1 人数 × 1 秒 × 1 苦痛 - 情状酌量

これを殺人罪方程式と呼ぶ。

この式を使い例えば 4 人の少年が面白半分で重りつけて少年を水死させた事例を取り上げてみよう。彼らに何を求刑するのが妥当であろうか。なおこれは重罪なので少年法は適用しない。

4 人で 1 人を殺した場合は、何人を殺した事になるかを求める必要がある。1 人で 1 人を殺したのと 4 人で 1 人を殺したのが同じ罰則は有り得ない。そしてそれで補正された人数でなければ殺人罪方程式に代入できない。

そこで複数人での殺害には殺人の濃度という考え方をする。1 人が 1 人を殺害した場合は濃度が 1 である。1 人で 4 人を殺せば濃度は 4 である。 4 人で 1 人を殺した場合は殺人濃度は 1 ÷ 4 で 0.25 となる。では殺人罪方程式には 0.25 人と代入すべきであるか。大勢で殺す方が得であるというのは承服できない。さて 0.25 人を殺す事は現実には不可能である。だから殺した人数をひとりの人間の数にまで変換する。そうして作成されたのが次の殺人濃度方程式である。

殺した人数 ÷ 殺人に関係した人数 × 殺人の濃度 = 1 (殺人濃度が 1 より小さい場合)

これが補正の殺人濃度方程式である。 0.25 を 1 にするために 4 を掛けなければならない。この 4 という数字が殺人濃度であり、このまま殺した人数と見做す。4 人で 1 人を殺したという事は、実際は 1/4 の労力で 1 人を殺した事である。0.25 の労力で 1 人を殺したのだから、通常の人が 1 人を殺す労力を使えば 4 人殺したと同等を見做せる。つまり 4 人で 1 人を殺すとは 1 人で 4 人を殺すのと同じ凶悪さだ。

この事例では水死だから殺人に要した時間は 5 分である。苦痛も激しいので仮に 10 とする。殺人罪方程式に代入し 4 人 × 300 秒 × 10 苦痛 = 12000 K となる。この殺人は 12000 人殺したのと同等と裁くべきである。これは死刑を求刑すべき犯罪である。

もしこれについて殺す気がなかったと被告が主張するのであれば、被告らは次の二点を説明しなくてはならない。ひとつ、重りをつけて人を池に落としたらどうなるかを知らなかった理由。ふたつ、10 歳を超えてもそれが理解できなかった理由。そしてこれら二つの理由と矛盾せずそれでも一般の高校に入学できた理由を合理的に説明しなければならない。それが出来ないならば、嘘を言っているか、知能と知性の両方に欠陥があると社会は見做さなければならない。何れにしろ殺人でないなら被告らの社会復帰は決して許されない。それは人と噛んだ犬や人里に下りてきた熊と同じようなものだ。彼らは修復不可能な動物である。人の姿をしているだけで犬や熊と違う扱いをするのは理不尽である。

このような凶悪な事件は、しかし歴史を辿れば幾らでも見つかる。奴隷や身分制度のある時代では惨い経験もたくさんあるだろう。遊びで人を殺すなど 18 世紀に西洋人がオーストラリアでやっていた事である。人間の本性としては実は不思議でもなんでもない事件かも知れない。それが現在の社会の中で起きた。 1 億人もいればそういう事を仕出かす奴がひとりやふたりがいても不思議はない。

しかし社会の要請はこの理解不能さを誰か説明してくれんかという声である。これをどう理解すればよいのか。我々は彼らを粛々と縛り首にしたり、斬首にする時代には生きていない。そうした社会が実際にあったかも疑わしいが。

どの時代でも信じられぬという事件は起きるのである。それをそれぞれの時代がその時代の価値観に従って正義や秩序の元で裁いてきた。それとどう相対すればいいかを決めるような強固な思想などどの時代にもありはしない。それでもこの判決はどうもおかしいと誰もが思っているのなら、それは社会の綻びでもあるのだろう。これを許しては社会は崩壊しかねないと予感する。それは規範の崩壊であろう。我々もそういう時代に居る。社会には罰則がある、だが規範の公平性、つまり正義が失われたら社会は失われないか。

我々は殺人罪方程式を手中に収める事は出来る。しかしそれで何も考えずに人を裁けるようになると考えるのは間違いだ。公式で判決を出せるならばコンピュータに任せておけばいい。しかしコンピュータは問わない。疑問に思わなければ間違う事はない。人であれば常に問い続ける事ができる。人を裁く時に 100 回は同じ判決だとしても 101 回目は違う判決が出るかも知れない。コンピュータなら 101 回目も同じ判決だ。どうもおかしい。これでいいのかと問う事だけが罰則を持つ我々の意味ではなかろうか。

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