毎週の連載の中で、常に感動を提供するこの漫画には驚愕さえ憶える。どうやら感動というものは意識して作り出す事ができるらしい。
これは物語を生み出す事と同意の事だ。この感動の背後にあるものを見つめてみたい。
僕たちは、そこに作者の手練を見る事が出来るだろう。
それは宇宙へ行くのにも匹敵する冒険だ。
感動する。
この感動の正体とは何であろうか。感動の正体が分かろうはずもないがそこにメカニズムもテクニックも存在する。その上でこの感動が生み出すものと、生み出すもとの関係はどの様に成っているだろうか。
感動という心の動きをトレースした所で、そこには構図が生まれるだけだろう。その分析だけでは作者の秘密に迫ったとは言えない。
構成もセリフも計算尽くの上で、作者は分かり切ったその作業の上に、何かを積み上げているはずだからだ。
それでもその構図を見る事は作者の創作に迫る最初の足がかりにはなると思われる。その奥にあるものを見つめるために取り敢えず目の前の壁を登ってみるのは決して無駄とは思われない。
そしたらみんなの意識に宇宙が降りて来てもっと宇宙が近くなる(3,p.174)
みんなっジャンケンで決めようか(5,p.14)
我々天文学者には遥か遠くまで行く力はありませんが"遥か遠くを見る力"なら我々に勝るものはいません(12,p.143)
セリフが思い出させる、シーンを。その一つ一つのコマ割りは忘れても、あの空気のようなものが蘇る。
これらの言葉が感動の正体であり、其れと共に思い出されるシーンの力だ。そしてこれらは小さくとも困難と対峙し、それを乗り越えた瞬間の言葉だ。
なんという言葉の力であろうか。ここにあるのは、過去を手繰り寄せ、今を創造した瞬間の言葉であるように思われる。
この漫画の本質は、切り拓く、なのである。
毎週連載される商業誌では、小さな盛り上がりを繰り返しながら翌週へと続く。それは小さな波を繰り返しながら、より大きな波を作り出す作業だ。
一話一話に完了があり、これまでの読者を飽きさせない、その上でこれからの読者を逃さない、そういう話が繰り返されてゆく。
読者はこの流れに身を任すしかないのだが、いつも何か足りないパーツがあり、それを埋めるまでは目を離せない。
話しは複数のテーマが重なり時間軸に合わせて縦走する。この重厚さは、登場する人物の重なりと比例し、複数のキャラクターが作品内で成立していなければ取り得ない手法だ。
これらのstoryの中で、この話はどうなるのか、に翻弄され読者は自力で泳ぐ術を失う。波に飲み込まれるかのような力のまま、引きづり込まれる。
それは巨大な重力に捉えられ落下し続ける衛星にも似ている。そこでは、考えることも出来ずその落下に身を任せているかのようだ。
物語を追い駆けている時は、こうなればいいとか、こういう話もあるかなとか、これはおかしいよという様な矛盾が湧く事もなく、ただ身を任せるだけの状態にいる。
読み終わって、初めて思いのままに色々な感想が浮かぶ。この感想にこそ、感動に繋がる本道がある。
この流れの中に自分を携え、その成り行きをトレースする。その今起きている事に身を任せながらも、その目的は先ずは撃ち取る事にある。
まるで猟犬のように、獲物を追い駆けているのかも知れない。どこに逃げ込もうとも、追いつめて、必ず読み込んでやる、そういう感情に近いかも知れない。
作者は、哀れな逃げるだけの獲物だ。どれほどに逃げ切ろうとも、いずれハンターに撃たれる運命にある。
それでも、その逃げる途中で何度も痛い目に合わせる。裏切り、更に先を行き、スピードを上げる、そのくせ、待っていたりする。
良く出来た作品は、悪戯好きの妖精が猟犬を揶揄(からか)っているかの様だ。木の根っこに突っ込んで鳴き面の前でクスクスと笑っているのかも知れない。
猟犬である我々が、その行き着く先を知らずに、何の考えが思い浮かべようか。単に身を任せているのではない、その行きつく先を予感と共に歩んでいるのだ、作者と。
漫画にはセリフで心理を現すものと、絵で心理を読み足らせるものも二種類がある。どちらにせよ、巧みに隠しておいた心理をどこかで明確に読み取らせる手法だ。
人の半歩先を進むのが一番共感を得られる、一歩では進み過ぎだと言われる。だが実際は違う、人が読み解けるように隠しておくのが一番共感を得られるのだ。
何処に置くかではない、どうやって隠しておくか、だ。子供が遊ぶときによくやっている。
見つけた時に、喜びがキラキラとするだろう。
これらの演出はそうやって喜怒哀楽を初めとする複雑で多彩で謎の多い感情に訴える。なかでも特に強力な感情は感動である。
何故、感情に訴えるのか、それが最もシンプルでブレないものだからだ。
感情は全ての終点であり、そして、始点である。優れた漫画は、必ず人を揺さぶり、感情の面で人をスタート地点に立たせる。その感動で満足していては不十分で、味わい、読み返し、また読み返し、そして発見する、そうやって考えてゆく。
感動をもって、決して、到着点で終わらせてはならない。
感動が何故に生まれるだろうか。それは誰にも分からぬだろうが、私達は感動するように作られている事は確かだ。
それに加えて感動を生み出すために絶対に必要な事がある。それは過去だ。
過去に何が起きていたのか、二人の関係や歴史、感情が描かれていなければならぬ。どうであれ過去への理解がない所に感動は生れない。
であれば、演出とはそのほとんどが過去を散りばめる事と言い換えてもよい。
演出よりも何よりも、言葉そのものが過去である。常に、我々に理解された言葉とは、既に過去であるし、過去を指している。
例えそれが未来について語っていようとも、言葉として定着してしまえば、それは未だ来ていないだけの、来たるべき過去に過ぎない。
だが、時々、それが過去に定着しない言葉が生れる。それが感動を生み出しているのかも知れない。感動とは過去と未来を繋げる今に存在しているのかも知れない。
実は、言葉もまた、時間芸術なのかも知れない。
それは意志というもの、込められた思い、願い、強さ、弱さ、諸々、それが読者も含めた人々に伝播する時に起きる何等かの感情かも知れない。
言葉は読者を裏切らなければならないし、同じく理解されなければならない。
過去は裏切らなければならないし、未来を共有しなければならない。
未来は裏切らなければならないし、過去に対しては誠実でなければならない。
過去がある、未来がある、そして今がある、それが物語の構造というものだろうか。
物語が何故に感情で出来ているのか、感情こそが最も正直だからだ。そして感情こそが最も正しく過去を理解するものだからだ。
演出とは正に今に続く過去を探す工程であり、物語とは、過去から帰ってくる行為だ。
だから、感動するだけのものは、今に留まる限り、今という過去を生きる者に過ぎない。
感動という過去をしっかりと見つめて見る。そこにある過去は、決して作者の過去ではない、自分自身の過去だ、その過去からの一番の正直な感情は、一番直な感想を心に浮かび上がらせる。
その感想こそが、自分の過去そのものであり、真っ直ぐではなく、歪んでいたり折れていたり変態である自分の、それを含めた過去からの全てのメッセージだ。
それは理性なんかでは捕え切る事など不可能な巨大な蓄積であるのに、それがたった一つの直な感情となって現れる。
だから、この感情の声に耳を傾けるべきなのだ。それは未来へと届けられたくて体の奥底から噴出した自分の過去全てだ。感情は常に自分の過去全てを背負って発せられる未来への明かりだ。
無様かもしれぬ、醜い姿かもしれぬ、化け物と呼ばれるかも知れぬ、それが今の自分の姿である。感情とは、その怪物の怒号かもしれぬ。
その姿を鏡に当てて見る事は出来ない。その姿を見たければ物語で比べてみるのがいい。
自分の好きな物語の感動はその作者と繋がる。それは読者のみんなとも繋がる。全員が自分のすぐ近くにあり、似たものであるはずだ。
作者は、こうしてただ、自分の感動を吐き出している。それが、どれだけの感動を生むか、倦まれるか、など分かりもしない。
読んでみようじゃないか、漫画の中を生きる彼らを。印刷された過去の中から、言葉の力で今を生きているではないか。彼らには、宇宙へと行こうとも行くまいとも未来があるように思われるではないか。
ここにあるのは近い未来に本当に起きて欲しい作者の願望だ。こうあって欲しい、宇宙とはこういう世界であって欲しい、それに読者がそれぞれの自分の姿を登場人物の中に見つけ出す。
巧みに隠された秘密とは、自分自身の新しい姿だ。
僕にはそう思われる。