本書は、不確実性に関する数学からのアプローチである。そこは魅力的な話題や命題が満ち溢れている。
しかし、それでもこの本については幾つか納得できない所がある。劣等生の落第生であるからこそ思う所がある。
問題.1
本書は、次のような例え話で始まる。先生と生徒を例にとり、テストを実施する事について次のように述べる。
学生が勉強する前には「テストをする」のが最善であるが、勉強したあかつきには不要となる。(P.17)
もちろんこの場合、生徒が勉強したにもかかわらずテストを実施する、という無駄なコストが必要になるが、それは戦略的な関係の構造がもたらす非効率性だから仕方がない。(P.19)
この人は何を言っているのだろう、テストをするのが無駄なコストだと思うような先生に自分の子供を預けたい親がいるわけないし、生徒が勉強したかどうかを確かめるのがテストだろう。勉強しようがしまいがテストはしなければならない。
この前提にあるものは、自分の答えを言いたいがために巧みに作られた設問に過ぎないのだ。それはまるで、数学の文章題のような。
問題文を読んで数式が組み立てられる人にはこの本は楽しいだろう。だが、問題文を読んでもチンプンカンプンの人を念頭に置いてこの本は数式を排除したのではなかったのか。
数式はないが、全て数学の文章題なら、それは数学のテストという点では何ら変わっていない。
例えば、毎日テストしている先生がいた。そのおかげで生徒たちの成績も優秀な状態にある。しかし毎日テストするのは先生にとっても大変な作業であるし、少し減らしたいと考えた、どうすればいいだろうか?
これならば、誰にでも理解できるし、数学などなくとも答えが可能だ。毎日じゃなくて三日おきとか毎週に一回とかにすればいいじゃない、これが一般的な答えじゃないか。
相手が持っている正解を答える(当てる)のが数学のテストであるなら、そんなものをお金を払ってまで受けよう(買おう)とは思わない。
答えが間違っていようとも回答したり考えてみたりできるような会話(読書)がしたいのではないか。
しかし、ここには、そんなことは求められていない。答えへと導かれるためには、前提条件として現実的ではない問題を受け入れるしかない。太郎君は花子さんの家に分速10mの速度で向かいました(...そんな奴いるのか)。
これが問題としてあるならば意味している事を理解は出来る。もし、これがテスト問題ではない、というのならこれは空想だ。
テスト問題としてなら成立する、テスト問題としてしか成立しない文章というのは存在する。そこには意図はあるが何かを伝えたい存在としての文章ではない。
数式を使わずに数学を分かり合うというのはかくも難しい。
動学的不整合性(time inconsistency)を理解するための問題ならもっと適切であるべきだ。
最初の戦略が、状況の推移によっては最適ではなくなる事を示す良い問題。例えば・・・
と、問題を考えて続けている。
一ヶ月もの時が経ってしまった。
それでも問題を適切に例示し、かつ、理解にしうる問題を見つけ出せないでいる。
平和主義者が力を持つ状況から生まれる世界大戦、ナチスの台頭は例題になるのか。そんなことまで考えてみたがそれを示すうまい問題とはならなかった。
つまりこれを問題文としようとする事が無理なのだ。それは説明すればいい、その具体的な解りやすい例、誰も知っている、というものもあるだろう。だが、それを文章にするのは以外と難しい。
水を堰き止めようとしたらその両側から溢れ出すように、
子供に勉強させようとしたら反感を買いヤル気が失せるように、
囲碁で責める石とは反対側に打ち込むように、
政府の政策が不評を買うように、
これらの失敗は目論見の失敗であろう。
その根底には人間に対する見方があるだろうか。自然に対する理解の不足があるだろうか。これは人間の心理と行動に関する複雑さを示しているだろうか。
ただそういうことがある、ということを知る。
問題.2
このような経緯をたどって、ケインズ的な財政政策は市民からも経済学者からも時代に問題視されるようになっていった。とりわけ乗数理論は、その後の研究から、実証的にも理論的にもほぼ完全に否定されることとなった。そして、このような批判の集積こそが、今回の経済危機での大きな政策転換を促す原動力となったのである。(P.126)
数学において、一厘の欠陥があればその証明は失敗と見做される。
数学者であるならば、ほぼ完全に否定される、とは、否定されていない事に等しい。否定されきっていない理論で世界がどう動こうがそれはニュース以上の意味はないはずだ。信じて動くのは構わないが、そこには数学はないはずだ。
ほとんど起きない、とは起きる事なのか、起きない事なのか。ほぼ完全に否定された、とは否定されたのか、否定されていないのか。
完全に証明されていない事柄を信じて何かを決定することはどれくらいの合理性があるのだろうか。
ブラジルの方であたらしい鉱山が発見されたそうですよ、ほら、あなたも投資しないと損しますよ。こういう不定の事実を示し、その次に断言するような構造を詐欺と呼ぶ。
では作者は詐欺師なのかと問えば、それは違う。本書がそうであるように、これは本当は経済学の本なのだ。
それが何故、数学の形を取ろうとしているのか、そこには数学にしたかった理由があるのだろう。しかし、作者もそのことを書いていない、本当は経済に関する本が書きたかったのだ、とは。
正直な告白がないものを詐欺師と呼ぶか、否。しかし、それは信じるには足りぬ。
問題.3
「すべての種類の貝において、ある貝は左巻きである」というような文は、どんな国の言葉に翻訳されても、意味が損なわれることはないだろう。そして、「しかるに、今この浜辺で拾った貝が左巻きであることは、けして不思議なことではない」とつなげても、どんな国の人もそれを額面通りに理解ができるに違いない。(P.232)
作者は、この文章をどんな国の人でも理解できると書いた。たぶん、そうなんだろう、日本人以外は。なんと醜い文章ではないか、なんと、多くの制約だけに従った文章だろう。論理文を読みたがっている読者が何人いるんだろうか。
海辺の貝には左巻きも右巻きもある。だから、今この浜辺で拾った貝が左巻きである事に僕が驚いたとしたら、君は不思議に思うだろう。
これなら自然な文章だろう、だが、
すべての種類の貝において、ある貝は左巻きである。
しかるに、今この浜辺で拾った貝が左巻きであることは、けして不思議なことではない。(P.232)
論理文とは、正しいかもしれないが、自然な言語ではない、言語はそれさえも受け入れるだけの幅を持っているだろうがそれを読むものがそれを受け入れるかは別の話だ。
本書で出てくる幾つもの例題は、問題を提起するためのものではない、
答えを知っているものには理解が容易く、
答えの見当もつかない者にはさっぱりわからない、
それはある種の試験で出題される問題文と同じ構造しかしていない。
答えを導くのに都合のいい例題が取り上げられる、しかしそれは、数学のテストでお馴染みの正確かもしれないが、意味がさっぱりわからない例の文章だ。
問題が読めないならお断りというなら、最初から数式を使えばよかったのだ。それではっきりと自分の信ずる経済論を解説すれば良かったのではないか。
それが読める人を頭のいい人と呼ぶのかも知れないが、そうではない。それは約束事を知っているか、知らないかだけの話であって知っていることは、有能である証明とはならないのだ。
何故なら、それを証明した人が頭のいい人であって、証明を知っている人は単なる秀才だ。数学的な考え方で話を進めたいと思っていたのなら、もっとやり方はあったはずではないか。
なぜ数式を見るのは絶対に嫌だ、という人にちゃんと読んでもらわなかったのか。
仲間内の人に喜んでもらいたいのなら、数式を使えば良かった。数式を使わずに読んでもらいたいと願うなら、例題をもっと工夫すべきであった。
本書は矛盾している、だから証明に失敗している。
まるで数式は出ないからと遊びに行ってみたが、単にやっぱり算数のテストだったかのようながっかり感がする。
数学嫌いは数式嫌いではないかもしれぬ、あの訳分からない日本語が嫌いなのではないか。
数式は物事を簡単にするために出来上がったものであって難しくするためのものではない。であれば、簡単であるはずの数式を使わないで自然言語で表現するというのは極めて難しい道理なのだ。
数式を使わないほうが読者が集まると思っているなら甘いし数式を使わない野心があったのなら失敗したと言わざるを得ない。
この著者はゲルググ・カントールを教えてくれた著者の一人である。人間を見る視線は、信用できるはずである。
経済学者とは、人間を見る視線の深さを競う学問である。薄っぺらの人間には薄くしか語れぬ学問だと信じる。
もし、数学が彼を足を引っ張るのであれば、その数学的なるものを捨て去り経済学の世界へ飛び立てばいい。
僕にはそういう風にこの本を受けた。最初の目論見は外れ、恐らく本書を書く上でのルールの設定に失敗したのだと、思われる。
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