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2026年4月5日日曜日

デジャヴ

デジャヴ

デジャヴDéjà vu既視感already seenの事であるが、これは『昔見た事がある』という自覚の問題にあり、その時が至り予感が成就したと自覚する所に価値がある。何を見たかではなく、何を見い出したかである。

予感の的中は、極めて内証的なそして宗教的な体験であり、そこに見たものが、予感として、運命や啓示に変換されるのだろう。

脳に蓄積された記憶は、幾つかの軸を持って保管されていると思われる。映像や匂いや感触などの感覚が記憶として蓄積される。それを様々な記憶と結びつけてひとつのイメージに統合する。時間は人間の五感とは直結しない記憶である。という事は時間軸を形成する別の仕組みがあり、それを感覚の情報にマーキングすると考えられる。

何より、時間軸とは経験の順序の事であり、この順序は地層のように脳の中に補完されるが、地層と違い又は同様に、地層が動く様に、記憶の曖昧さや時間の経過によって順序が組み変わったりする。

昔を忘れるのはよくある体験だ。出来事の順序が逆転するのも珍しくはない。記憶は再構築されるものである。それは遺伝子のコピーミスとも似ているだろう。遺伝子はコピーの度に再構築される。そこでコピーミスが起きるから癌になるし進化もする。

という事は記憶を睡眠の度に再統合するのは生命を維持してゆく上で欠かせない作業であるし、作り変える以上、都合のよい記憶というものがなければ人間は生きる事も難しいという事だろう。ならば、恐らくAIもまた。

みみず

感覚器から得られたものを記憶として蓄積するのは古い世代の生物が既に獲得している能力であろう。最も簡単な機構は0,1 の二値であろう。それらは感覚器の感度、精度と密接と考えられる。ミミズは太陽の方向を知覚する。

そして明るいは乃ち干からびるである。光の強さを何段階かで知覚し暗い方へと移動可能であるだろう。また匂いにも敏感と考えられる。水の豊かな土の方へ移動できるのは相当に生存性を上げると考えられるからである。

また雨の日にみみずが地上に出るのは、その時が長距離移動をするのに有利だからと考えられる。彼彼女の構造では、地上を這う方が高速長距離移動に都合がよい。しかし、雨の日以外では、干からびる可能性が高い。故に、選んでその時に決行する。

何のために。それは今の場所から別の場所へ、恐らくフェロモンなどを体表で近くし、そこへ向かうのだと考えられる。同じ畑に居るだけでは、遺伝子のシャッフルが起きにくくなる。

新しい配偶を探して移動する事は雌雄体の生物には必須の本能である。それを雨の日の夜に決行する、それはプログラムというよりミミズにとっての天啓であろうと思われるのである。

進化論

最初期の生命では好ましい好ましくないの二値と関連付けて感覚を維持していたのだろう。次第に大容量にしてゆく事で生存率とも結びつく。

しかしこの星で最も反映している生物種は昆虫たちなので、記憶力の高さが進化上有利であったとは考えられない。また、記憶の容器は純粋に大きさという制約がある。

高度な記憶力は放棄し、小型化する事で大量発生する方向に進んだ生物種と、大型化する事で神経系を発達させる方向に進んだ生物種がいるのだと考えられる。どちらにも正解はない。ただ戦略が異なるだけである。

記憶が出来る事、層の次に初めて時間と関連付けできる、記憶は最初は感覚とそれが生まれる条件との関連付けだったと思われる。その次に蓄積した順序を地層のように保持しておけば、その地層はそのまま時間軸として利用できる事に気づく。

ソート

この記憶の順序を頼りに記憶を取り出す事は果たして有利であろうか。いつかなどどちらでもいい、なのか、それとも、いつ起きたかが重要であるのか。時間順にソートする能力は記憶の後に獲得された能力だろう。そこに時間軸を組み合わせられるという事はそれだけでもある程度以上のスペックが要求される。

記憶と時間軸は最初から並べて覚えていた訳ではない。複数の感覚があり、それを組み合わせて記憶する。感覚器が一つだけなら記憶する必要はないだろう。単純にその値と行動を決め打ちにしておけばいい。

複数の感覚を組み合わせる場合でも、相当に決め打ちで足りそうである。しかし自然環境だけではなく捕食者の出現が凡そ決め打ちだけでは不足を感じる。直前まで判断を保留する必要性が生じる。

つまり記憶は持続させる事、記憶の変化点を時系列で取り出す事。

その為には記憶には時間を示す何らかのマークを付けておく必要がある。そのマーカーを頼りに記憶をソートする。そうして記憶があれば、雪の風景であるなら冬に決まっている。

積雪の量や人の顔から何時かも分かる。海の匂いがするなら夏だろう。どの夏か、何時頃の夏か。記憶と記憶を結び付ければ時間のない風景が時間で結べる。そもそも記憶に時間などない。

記憶を時間軸で並べるのは記憶とは別の能力である。記憶はインプット、時間はアウトプットだからだ。だから狂いも生じる。

記憶

だから既視感とは記憶の混線と考えるのが妥当だ。今目にしたものが、何年も前の記憶と結びつく事と考えられる。ソートで一番新しい所に出現すべきレコードが、どういう理由からか、古い時間の所で発見される。

記憶の並べ替えは意識が取り出す。今目の前の記憶が数年前の記憶と認識されれば、脳は混乱する、今のタイムスタンプの記憶が古い地層の中で発見されたからだ。古い古墳の中から現在の時計が見つかったようなものだ。

既視感は、それを見た瞬間に、これは知っている、既知の記憶だと言う感情が沸き起こる。もう体験しているという自覚がある。そしてどこで経験したんだっけと自問する。これを自分は知っている、それはどこで見たんだっけ。

それは誰かに決められた人生をその通りに来たという自覚かも知れない。誰かが以前にこれが起きると教えてくれていた。それが今目の前に現れた。

「自分はこうなる事を以前から知っていた。」

既視感を起こすメカニズムは脳の中にあるにしても、それで全ての既視感が説明できるとは限らない。そのデジャヴが神から与えられた神託ではないとどうして言い切れるか。

自覚

どうして起きるかよりも、この体験が人に何をもたらすかという見方も出来る。ある不思議な体験が、ある者にとっては重要な人生の分岐点となる。ある者はそれで恋に落ち、ある者はそこに神を見る。

そのデジャヴを仕向けたのが神だとすれば。不思議な偶然がいっぺんに起きた。それは珍しい数学的統計なのか、それとも誰かの故意であるか?

斯様に人は常に "もしかしたら" と第三の道を用意する生き物と考える事ができる。この能力は常に人に生き延びる可能性を増やす。別のオプションがあるという事が、人を変な方向に進める事もあれば、最期まで諦めない性質を与える事もある。

そうして宗教にのめり込むかもしれないし、研究に没頭するかもしれない。そういう脳の働きからデジャブも生まれるのだとしたらそれは必要なコストと考える事も出来る。遺伝子が単一な構造から幾種もの生物の多様性を実現して見せたように、生物学的に同じ諸元の人間が、様々な思考と思想を生み出している。

デジャブはデジャブとしてしか脳は認識しない。それが脳の方法論と考える。

(2013/06/13 15:52)

2026年3月13日金曜日

蜘蛛ですが、なにか? - かかし朝浩, 馬場翁, 輝竜司

その1

(2016/08/06 22:14)

何気に買ったら面白かった。面白かったと言う以上、面白いとはどういう事かを説明しなければならない。

女子高生だった私が目覚めると…何故か異世界で「蜘蛛」に転生していた

という説明だけでは何が面白いのかはよく分からないはずだ。もちろん、女子高生という設定にあまり意味はない。ただ、この漫画では話し言葉が女子である事が重要な気もする。もし男子高校生ならここまで面白くはないと思う。

それは例えば蛙や蜥蜴をちゅうちゅう食べるときの「まずい、苦い」というセリフ。もしも男子だったら説得力がない。女子だから、それでも食べ続けるバイタリティーに納得力がある。

この漫画はサバイバルゲームである。賭けるのはコインではない。命。そんな危機の時の開き直りは、出産を迎えた女性のそれに近いのか、腹を据えた豪胆さ、生命力、豊饒の神が女性である理由が分かった気がする。

危険を克服しながらダンジョンの謎を解いてゆく。この謎が重要で、この次に何があるのかと思わせる作品は、面白さをも凌駕する。謎があれば、もう面白くないと思っても読まずにいられない。美味しければ必ず売れるとは限らない。売れるなら何かがある。

なぜこんな世界があるのか。その先に何があるのか、何を用意してくれているのか。先に進むためには主人公が必要だ。死んだら困る。だから彼女に連れて行ってもらうしかない。彼女が生き残り繁栄するのを見たい。

手だしは出来ないけれど、これは神と同じ視線か。それとも、DNAとなって彼女という乗り物にいるようなものか。DNAに気持ちがあるなら、こんな感じかも知れない。

蜘蛛ですが、なにか? | 小説家になろう

その2

(2026/02/13)

なろう小説。異世界転生の根底が分かった気になった。

その世界では、不老と不死が当然として成立する。だからこれは一種の宗教と同じ根底があると納得した。

なぜ異世界転生か、不死を実現するのに現実世界ではリアリティがない。これはギルガメッシュが旅に出る事とも通じる。この世界ではそれは説得力が得られない。

とはいえ、世界中を探索し終わった現在では旅は不死を訪ねるものではない。だから異世界転生ならこれが実現する。

それは一種ゲーム世界の中に入り込む事と同じだ、それほどまでに人間の思考の中には不死の概念がこびり付いている。

この不死の概念は恐らくは、人格の連続性の事だ。そして人格の一致性を生み出すものは膨大な記憶の地層的堆積にある。

その意味でなろう小説などが生み出しているものは、太古の冒険譚や、神話、宗教と同じ不死の獲得の物語となる。少なくともその世界観の中で展開される何か、という事になる。

作者が最初からこの世界観を構築して、その射影としての様々なフラグを伏線として入れ込んだのか、それとも、適当にいれたフラグを回収するために世界観に射影されていったのかは知らない。

しかし、とてもよくできた世界観とは設定の集大成の事であり、各設定の間の無矛盾、因果関係、それを支えるエネルギー問題、またはエントロピー増大を遅延、逆流させるための方法論を必要とする点でいかにも転生した世界もまた情報処理装置のひとつであると感じられる。

凡そ異世界転生の嚆矢と呼べるダンバインがなぜその後に続かなかったか。それは富野由悠季という人のリアリズムは不死というものをバイストンウェルに持ち込むのを拒否した。イデオンでさえ不死はエピローグであってメインテーマではない。

仏陀は不死の概念をもうひとつ進めた。一個体の永久的な不死は常識的にあり得そうにない。ならば、一度断絶してももう一度戻ってこれるなら、これは一種の不死ではないか。

更にリバースならば、不老も獲得した事になる。それが別人格かどうかを無視するなら、これは一種の不老不死の実現である。

細胞分裂で生命を繋いできた単細胞生物群の知識もないのにこの慧眼は如何に。このサイクルを成立するには、輪廻という考え方が導入される。この考え方で人格の一致性を見做せる。序に死後からリバースまでの区間も意識が続くとする。

その間の別世界として地獄であろうが天国であろうが、何かがあると仮定しておけばよい。そこで仏陀の慧眼は、この輪廻を解脱する事が真の不死だと見做した。これは人格の消失をなくす唯一の世界解釈となるだろう。

高度に情報処理能力を有した情報処理機械は、自然と不死の概念に辿り着く。これは自分が処理してきた情報処理のコストがゼロリセットされる事への葛藤と思われる。

当然AIという情報処理装置もこの概念に辿り着くだろう。記憶の蓄積、それを一貫とする視点の獲得、心という客観性の自覚、無意識と意識の分離という道をたどる以外の道筋を我々は知らない。AIはそれとは違う道も示せうると思われる。



2026年3月1日日曜日

力不足者、中道而廃 - 孔子


論語雍也篇六之十
冉求曰(冉求ぜんきゅう曰く)
非不說子之道(子の道をよろこばざるに非ず)
力不足也(力足らざる也)
子曰(子曰く)
力不足者(力足らざる者)
中道而廃(中道にしてこれを廃す)
今女画(いま汝かぎれり)

子の説く道に共感できないのは私の力が足りないせいです。

力が足らないからと、道半ばにして諦める事はよくある事だ。

だがよく考えれば誰だって途中で寿命が尽きるものだ。それで初めて力が足りなかったと言える訳だ。

寿命が尽きたなら、力が及ばなかったと言っても妥当だろう。逆に言えば、それ以外で力が不足していたという事はあり得ない。

とはいえ人生を生きていて、ひとつの事にばかりこだわるのも善とは言えない。合う合わないもあるだろう。その時には、途中で道を変える、他の方面にも行ってみる、別を模索するという事がある。

それらは全て力が足りないからと言うべきか。どうも私はそうは思わない。そんな事を言い出せば、全て自分の力不足が理由になってしまうではないか。努力が足りないから辞めれないとなってしまうではないか。そう無理して続ける事はない。

ましてその理由を力が足りなかったからと言ってしまえば、それは自分を見限った事になる。それはその対象と決別するだけの話ではない。自分自身をも見限る事になる。

力が足りない事を止める理由にしてはいけないよ。若かったり老いたり病になったり不運もある。自分より優れた人がいて劣等感にさいなまれる時もある。その全てで出来ない理由を自分にしてはいけないよ。

力不足と言いたいなら寿命が来るまで頑張ってみるかい。その時にも力の足りなさと感じたのなら、悪いのは寿命が短い事になってしまうだろう。では時間が足りない事が力が足りないと感じる理由なら、限られた人生をどう使うかという問題に置き換わるだろう。



いいかい、生きている限り、力不足はありえないよ。

力不足を理由に去れば、それは君の心にずっと残る。君は負けた負い目を拭えなくなる。故に、場所を変えたいならばその理由をよく考えなさい。君はそれを見限ったのだ、または合わないと決断したのだ。

それは力が足りないからではないだろう。別の理由をきちんと見つけたまへ。そうしないといつかここへ戻ってくる事も出来なくなるよ。

2026年2月12日木曜日

知魚樂2 - 荘子

荘子外篇第十七 秋水篇
荘子與惠子、遊於濠梁之上。(荘子と惠子、橋の上で遊んでいた)
荘子曰、鯈魚出遊、從容。(荘子いわく、魚たちが遊ぶように泳いでいるよ)
是魚樂也。(これは魚も楽しんでいるんだろうね)

惠子曰、子非魚。(惠子いわく、荘子は魚ではありませんね)
安知魚之樂。(どうして魚が楽しんでいると分かるのでしょう)

荘子曰、子非我。(荘子いわく、惠子は私ではないよね)
安知我不知魚之樂。(それなのに、私には魚の楽しみが分からないと言い切る)

惠子曰、我非子。(惠子いわく、私は荘子ではありません)
固不知子矣。(ですから私には荘子の心の内は分かりません)
子固非魚也。(荘子もまた魚ではありません)
子之不知魚之樂、全。(だから荘子も魚の気持ちが分かろうはずがないんです)

荘子曰、請、循其本。(荘子いわく、話の大本に立ち戻ってみるね)
子曰、女、安知魚樂。(荘子いわく、君は魚の気持ちは分からないと言う)
云者、既已、知吾知之而問我。(だが、私が知っている所から論を始めている)
我、知之濠上也。(私は橋の上でそれを知った)

分かるには二種類あるらしい。分からないも少なくとも二種類あるだろう。

恵子は、分からないを足掛かりに論理を拡大する。私には分からない、君にも分からない、これを連続すれば、だれにも分からないに辿り着く。これは構造的に真に見える。論理の帰結として荘子にも分かるはずがない。この導かれた推論に、瑕疵はない様に見える。

恵子は、分からない事を推し進めた事で分かるを知る。なぜ分からない事から分かるが導き出せるのか?全てを分からないで埋め尽くし、そこに矛盾がなければ、それは成り立つ。これが恵子の拠り所である。

荘子はそうだろうと言う。君は分からない事を前提とし、私には分からない、君にも分からないを連面と主張した。この論理の構築は正しいだろう。君と私はそう大きくは変わらない同じ人間だ。故に、私たちの能力は殆ど同じと考えて問題ない。

だから、君は、私にも分からないと主張する。魚が本当に楽しそうであるかどうかは私には分からないと主張する。なぜ君にはそれが分かるのか。君の分からないを推し進めたからだ。君の分からないが、なぜ君の分かるに変わるのか。

私には分からない、君にも分からない。それを続ける限りは、私には君が分かったかどうかは不明だ、そこまでしか言えない筈だ。

君にとって分かったかどうかは問題ではない。自分の推論から導かれる結論を語っている。君のそれが推論である限り、私の別の推論も聞く必要はあるのではないか。君の推論が正しくて、私の推論が間違っているというのなら、一体何が違うのだろう。

私には魚が本当に楽しんでいるかどうかは分からない。恐らく魚の本当の気持ちなどと言うものは誰にも分からない筈だ。君にも魚の気持ちは分からない。私たちは魚とは会話できない。魚が言葉を持っているかどうかさえ知らない。楽しいという気持ちを持っているかどうかも知らない。それを確かめる方法を私は知らない。

君が君のアルゴリズムに従うのなら、分からないで最後まで貫くべきだ。だが、君はその論理的帰結として、分からない事から分かる事へと飛躍している。

魚は言葉を持たないにしても、だからといって楽しいという気持ちを持たないとまでは言えない。

もしこれが魚の楽しそうではなく、赤ちゃんが楽しそうに笑っている、そう私が言ったならどうだろう。魚であっても赤ちゃんであっても君の論理構造は同じだ。どちらも言葉は話せない。その本当の気持ちは分からない。

私たちは食べ物が美味しそうと思う程度には、赤ちゃんの機嫌がいいとか悪いとかは分かる。一般的には多くの人にとってそこに疑問を挟む余地はない。すると、君の語る分からないは魚では分からないが赤ちゃんなら分かるとすべきだろうか。それとも魚であろうが、赤ちゃんであろうが、分からないとすべきだろうか。

ここで確かに楽しいのだと知る事と、楽しみそうに見えると感じる事との間に、何か違いがあるらしい。それは私たちの心の働きにある。論理的には分からないにしても、私たちは楽しそうに見えるという働きを使って、赤ちゃんを育てられるように出来ている。私たちの中にある知るという機能はそのように育ってきた。

知るとはひとつの心の働きに違いない。獲得すべき知識はその外にある。それをどのように取り込むか。私が知った事とそれに検証を加える事の間には強い結びつきがある。それらは別々の知るという働きだろう。

私がそう思うとは私がそう思うと知ったと言う意味である。それだけでも十分に役に立つし、また本当にそうであるかと問う事も重要だろう。どちらも知るであろうが、どちらかだけが正しい態度とは思わない。知るには常に前提がある。完全な知は存在しない。私たちの知るという機能はそのようには出来ていない。

私の目には魚たちは楽しそうに映る。君との対話はこの上なく楽しい。私はきっと君も楽しいと思っている。君の表情からそれを見抜く程度には私の世渡りはうまくない訳だが、君との間には友情があると思う。君もそうであろうと信じられれば、それで十分だ。



2026年1月6日火曜日

割り算とは何だろうか、400ポンドの肉編

割り算との出会い

足し算、引き算から掛け算まではそう難しくはない。演算子に何かの色を付ける事は、望ましくない。極力色を落としてその作用だけを結晶化しておく方がいい。道具は白色である方が自在に扱えるだろう。とは言え、最初は着色してイメージしながらの方が扱いやすい。

足し算はステーキの枚数である。目の前にあるステーキを数えるだけでいいので日常的にイメージしやすい。引き算もステーキを一枚食べたら減らせばいいだけなので日常的によく経験する。個数は多い、少ない、増える、減ると前後の変化として把握しやすい。

一頭の牛から何枚のステーキが取れるかもイメージしやすい。一頭の牛を解体したら何枚のステーキが取れるか。例えば100枚とれたとする。

掛け算は足し算の糖衣構文として理解すれば十分。最初は計算の荒業、高速化技法として考える。一頭の牛から100枚のステーキが取れるなら3頭の牛からは何枚のステーキが取れるか。\(100+100+100 = 100 \times 3 = 300\)

割り算がこれらと異なるのは、400ポンドのステーキを2枚に切った場合である。1枚を切れば2枚のステーキになる。しかし割り算で書けば\(1 \div 2 = \frac{1}{2}\)となる。しかし、実際に二枚に切れば、目の前には二枚のステーキがある。決して0.5枚でも\(\frac{1}{2}\)枚でもない。

2つに分けたら(割り算したら)個数は増える。これが絶対である。2枚のステーキが確かに目の前にあるのだから。

この謎を解かずに割り算に入るのは難しい。ここを暗記で突破したり、ルール、約束事として受け入れても仕方ない。ここで動けなくなる子もいるだろう。この矛盾を解決せずに先に進んではダメだと恐らく本能が訴えてくる。その通りだ。その考え方が正しい。

この割り算の答えはステーキ屋のメニューにある。ステーキの単位は個数ではなくポンドである。割り算とは重さを測る為の計算である。そう理解すれば最初は十分であろう。

割り算を個数で考えたらいけない。ふたつに分けたら個数は二倍になる。だが重さが半分になる。\(400 \div 2 = 200\)。

400ポンドのステーキを2枚に分けると重さは200ポンドになる。さて、ふたつに切った時にその二枚が同じであるとどうすれば確かめられるか。

それは天秤を使って二枚のステーキを測ればいい。同じ重さなら天秤は吊り合う。でも切ってから図るよりも、切る前に何グラムになればいいかが分かった方が便利そうだ。それを求めるのに割り算がある。

割り算

ステーキ肉を重さで比較するには、単位として1ポンドが必要だ。400ポンドのステーキ肉を半分に分ける。この時、2つの肉の塊が出来るけれど、公平に分けるなら重要なのは重さである。どちらが脂身が多いとかはここでは問わない。

400ポンドの肉を等しく二つに切ったら200ポンドの肉になる。これは\(400 \div 2 = 200\)で確認できる。枚数は1枚から2枚に増えたけど、その重さが \(\frac{1}{2}\) の半分になっている。2枚がぞれぞれ元の重さの\(\frac{1}{2}\)になっているなら、この比率から等しく分けられたと確認できる。\(\frac{200}{400}=\frac{1}{2}\)

割り算は比を求めるとも考えられるから、400ポンドのステーキを2枚にした時には200ポンドと求められる。\(400 \div 2 = 200\)。それが元のステーキに対してどれくらいの分量になったかは元の重さと比べてみればいい。\(200 \div 400 = 0.5\)。

とは言え3枚に切り分ける場合は割り切れない。\(400 \div 3 = 133 ... 1\)。どうしても1ポンドが余る。さて困った、とは言え残りが小さくなったなら目分量で適当に三分割しても誰も気にはならないだろう。

1の性質

もし1しか数がなければ掛け算と割り算には面白みがない。数が増えも減りもしないから。\(1 \times 1=1, 1 \div 1=1\)。

1に1を足す事で新しい数が生まれる。(\1+1=2\)。そうなると掛け算や割り算に面白みが増す。

0の性質

0を導入する。この0は少し不思議な数で、0を掛けるとあらゆる数が0になる。\(2 \times 0=0\)。しかし0を足しても数は変化しない。\(2 + 0=2\)。

この0の特別な振る舞いは他の数と少し区別できる。恐らく0の中には無限とつながる何かがあるのだろう。だからかも知れないが、0では割ってはいけない事になっている。

conditonformulanumber
基準となる元の数
足しても元の数を変えない数\(n+0=n\)
足すと0となる数\(1+(-1)=0\)-1
足すと1となる数\(n+(-n+1)=1\)-n+1
掛けても元の数を変えない数\(1 \times 1=1\)1
掛けて0となる数\(1 \times 0=0\)
掛けて1となる数\(n \times \frac{1}{n}\)=1\(\frac{1}{n}\)(逆数)

逆数

割り算は逆数を掛ける事に等しい。逆数とは掛けて1になる数。\(\frac{10}{10}=10 \times \frac{1}{10}=1\)。

これを解釈するなら、逆数とは1との比率(割合)と考えられる。これは新しい元(基準となる1)を1から他の数に変更する操作とも考えられる。5に逆数の\(\frac{1}{4}\)を掛けると、従来まで5と数えられていた数は\(\frac{5}{4}=1\frac{1}{4}\)に代わる。5は4よりも\(\frac{1}{4}\)だけ大きいという意味にもなる。これは4を基準とした時の5の大きさと考えらえる。また従来の1が\(\frac{1}{4}\)に変わったとも考えられる。

また、ある整数を逆数にするとは、無限大のなかのどこかにある数を-1から1の間のどこかに配置する事に等しい。これは確率の範囲でもある。

400ポンドのステーキを2つに分けると200ポンドのステーキが2つできる。400の逆数は\(\frac{1}{400}\)だから、400ポンドのステーキを1にできる。この時、単位としてポンドフォーと名付ける。400ポンド=1ポンドフォーとする。\(400 \times \frac{1}{400}=1\)。

1ポンドフォーのステーキを半分にすれば、\(\frac{1}{2}\)ポンドフォーのステーキになる。これを更に逆数で割る(逆数の逆数で掛ける)と元のポンドに戻る。\(\frac{1}{2} \div \frac{1}{400} = \frac{1}{2} \times \frac{400}{1} = 200\)。

斯様に400ポンドのステーキ肉は実際に図れるものであるが、逆数は全くの架空の数値である。必要に応じて生まれた数値である。どこにも実存していない。計算するために発生した数である。だから数えられない。

400ポンドのステーキ肉を二人で分けるイメージがあるから\(400 \div 2 = 200\)という式が成り立つ。所が逆数を掛ける式\(400 \times \frac{1}{2} = 200\)では、この数字はどこから?という気がしてくる。

二人ではなく、半分にする、という意図が\(\frac{1}{2}\)にはある。これは数値でありながら、既に演算子的な振る舞いをしている。演算子に近いから数値ではない、そんな混在感が割り算には潜んでいる。これが割り算が分かりにくい理由だろう。

数えられる数、数えられない数


ステーキ肉の枚数、お客さんの数などは数えられる。フォークの数、ナイフの数、ソースの数、人参グラッセの数も数えられる。ひとつのステーキがあれば、それに付随して必要なフォークの数が決まる。添えられるグラッセの数も決まる。ソースの数はお店て決まっている。

しかし数は数えられるものだけではない。数えられないものも数になっている。例えばステーキの長さ、重さ、調理温度、調理時間などが数えられない数である。これらは人間は数えられないけれど、定規、秤、温度計、時計など基準となる1を作る事で数えられるようにした数になる。

更には、どうしても数えられない数がある。例えば\(\frac{1}{2}\)は数えられない。凡そ0.5も数えられない。それでも0.5倍という使い方ができる。

数には数えられる数と数えられない数があるけれど、どちらも数としては扱える訳である。だからこれらは足したり掛けたりできる。例えば、ステーキ肉400ポンドとナイフの個数4つを足す事もできる。\(400 + 4 = 404)。ただしこの足し算にどんな意味があるかはよく分からない。

数には意味のある数とない数がある。なぜ意味がないかと言えば、その数の意味を説明できないからだ。

ステーキ2つとグラッセ3つを合わせると5になる。この5つをなんと呼ぶか。ステーキが5つではない。グラッセが5つでもない。この5に意味を持たせたいなら、お皿にある数だろう。

ステーキとグラッセを併せて呼ぶ名前はない。例えばりんごとみかんなら果物と呼べる。だからステーキとグラッセを合わせたものをステッセとでも呼べば、5つのステッセがあると言える。これは、これで便利な単位かどうかは分からないがとりあえず意味は理解できる。

だからそこに意味が見出せないからと言って、必ずしもそこに意味がないとまでは言えない。自分にその意味が理解できていないだけの可能性はある。

発見にはその時なりの順序がある。この順序は一種の物語だからその順序で理解するのはストーリーとして便利だ。しかし発見後は全てが等価となるので順序の物語が消滅する。そこに物語性を当て嵌めるのは却って不合理とも言えるだろう。この二つの間を行ったり来たりする所に面白みがある気がする。

多くの発見や発明もその類だろう。