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2026年2月12日木曜日

知魚樂2 - 荘子

荘子外篇第十七 秋水篇
荘子與惠子、遊於濠梁之上。(荘子と惠子、橋の上で遊んでいた)
荘子曰、鯈魚出遊、從容。(荘子いわく、魚たちが遊ぶように泳いでいるよ)
是魚樂也。(これは魚も楽しんでいるんだろうね)

惠子曰、子非魚。(惠子いわく、荘子は魚ではありませんね)
安知魚之樂。(どうして魚が楽しんでいると分かるのでしょう)

荘子曰、子非我。(荘子いわく、惠子は私ではないよね)
安知我不知魚之樂。(それなのに、私には魚の楽しみが分からないと言い切る)

惠子曰、我非子。(惠子いわく、私は荘子ではありません)
固不知子矣。(ですから私には荘子の心の内は分かりません)
子固非魚也。(荘子もまた魚ではありません)
子之不知魚之樂、全。(だから荘子も魚の気持ちが分かろうはずがないんです)

荘子曰、請、循其本。(荘子いわく、話の大本に立ち戻ってみるね)
子曰、女、安知魚樂。(荘子いわく、君は魚の気持ちは分からないと言う)
云者、既已、知吾知之而問我。(だが、私が知っている所から論を始めている)
我、知之濠上也。(私は橋の上でそれを知った)

分かるには二種類あるらしい。分からないも少なくとも二種類あるだろう。

恵子は、分からないを足掛かりに論理を拡大する。私には分からない、君にも分からない、これを連続すれば、だれにも分からないに辿り着く。これは構造的に真に見える。論理の帰結として荘子にも分かるはずがない。この導かれた推論に、瑕疵はない様に見える。

恵子は、分からない事を推し進めた事で分かるを知る。なぜ分からない事から分かるが導き出せるのか?全てを分からないで埋め尽くし、そこに矛盾がなければ、それは成り立つ。これが恵子の拠り所である。

荘子はそうだろうと言う。君は分からない事を前提とし、私には分からない、君にも分からないを連面と主張した。この論理の構築は正しいだろう。君と私はそう大きくは変わらない同じ人間だ。故に、私たちの能力は殆ど同じと考えて問題ない。

だから、君は、私にも分からないと主張する。魚が本当に楽しそうであるかどうかは私には分からないと主張する。なぜ君にはそれが分かるのか。君の分からないを推し進めたからだ。君の分からないが、なぜ君の分かるに変わるのか。

私には分からない、君にも分からない。それを続ける限りは、私には君が分かったかどうかは不明だ、そこまでしか言えない筈だ。

君にとって分かったかどうかは問題ではない。自分の推論から導かれる結論を語っている。君のそれが推論である限り、私の別の推論も聞く必要はあるのではないか。君の推論が正しくて、私の推論が間違っているというのなら、一体何が違うのだろう。

私には魚が本当に楽しんでいるかどうかは分からない。恐らく魚の本当の気持ちなどと言うものは誰にも分からない筈だ。君にも魚の気持ちは分からない。私たちは魚とは会話できない。魚が言葉を持っているかどうかさえ知らない。楽しいという気持ちを持っているかどうかも知らない。それを確かめる方法を私は知らない。

君が君のアルゴリズムに従うのなら、分からないで最後まで貫くべきだ。だが、君はその論理的帰結として、分からない事から分かる事へと飛躍している。

魚は言葉を持たないにしても、だからといって楽しいという気持ちを持たないとまでは言えない。

もしこれが魚の楽しそうではなく、赤ちゃんが楽しそうに笑っている、そう私が言ったならどうだろう。魚であっても赤ちゃんであっても君の論理構造は同じだ。どちらも言葉は話せない。その本当の気持ちは分からない。

私たちは食べ物が美味しそうと思う程度には、赤ちゃんの機嫌がいいとか悪いとかは分かる。一般的には多くの人にとってそこに疑問を挟む余地はない。すると、君の語る分からないは魚では分からないが赤ちゃんなら分かるとすべきだろうか。それとも魚であろうが、赤ちゃんであろうが、分からないとすべきだろうか。

ここで確かに楽しいのだと知る事と、楽しみそうに見えると感じる事との間に、何か違いがあるらしい。それは私たちの心の働きにある。論理的には分からないにしても、私たちは楽しそうに見えるという働きを使って、赤ちゃんを育てられるように出来ている。私たちの中にある知るという機能はそのように育ってきた。

知るとはひとつの心の働きに違いない。獲得すべき知識はその外にある。それをどのように取り込むか。私が知った事とそれに検証を加える事の間には強い結びつきがある。それらは別々の知るという働きだろう。

私がそう思うとは私がそう思うと知ったと言う意味である。それだけでも十分に役に立つし、また本当にそうであるかと問う事も重要だろう。どちらも知るであろうが、どちらかだけが正しい態度とは思わない。知るには常に前提がある。完全な知は存在しない。私たちの知るという機能はそのようには出来ていない。

私の目には魚たちは楽しそうに映る。君との対話はこの上なく楽しい。私はきっと君も楽しいと思っている。君の表情からそれを見抜く程度には私の世渡りはうまくない訳だが、君との間には友情があると思う。君もそうであろうと信じられれば、それで十分だ。



2026年1月6日火曜日

割り算とは何だろうか、400ポンドの肉編

割り算との出会い

足し算、引き算から掛け算まではそう難しくはない。演算子に何かの色を付ける事は、望ましくない。極力色を落としてその作用だけを結晶化しておく方がいい。道具は白色である方が自在に扱えるだろう。とは言え、最初は着色してイメージしながらの方が扱いやすい。

足し算はステーキの枚数である。目の前にあるステーキを数えるだけでいいので日常的にイメージしやすい。引き算もステーキを一枚食べたら減らせばいいだけなので日常的によく経験する。個数は多い、少ない、増える、減ると前後の変化として把握しやすい。

一頭の牛から何枚のステーキが取れるかもイメージしやすい。一頭の牛を解体したら何枚のステーキが取れるか。例えば100枚とれたとする。

掛け算は足し算の糖衣構文として理解すれば十分。最初は計算の荒業、高速化技法として考える。一頭の牛から100枚のステーキが取れるなら3頭の牛からは何枚のステーキが取れるか。\(100+100+100 = 100 \times 3 = 300\)

割り算がこれらと異なるのは、400ポンドのステーキを2枚に切った場合である。1枚を切れば2枚のステーキになる。しかし割り算で書けば\(1 \div 2 = \frac{1}{2}\)となる。しかし、実際に二枚に切れば、目の前には二枚のステーキがある。決して0.5枚でも\(\frac{1}{2}\)枚でもない。

2つに分けたら(割り算したら)個数は増える。これが絶対である。2枚のステーキが確かに目の前にあるのだから。

この謎を解かずに割り算に入るのは難しい。ここを暗記で突破したり、ルール、約束事として受け入れても仕方ない。ここで動けなくなる子もいるだろう。この矛盾を解決せずに先に進んではダメだと恐らく本能が訴えてくる。その通りだ。その考え方が正しい。

この割り算の答えはステーキ屋のメニューにある。ステーキの単位は個数ではなくポンドである。割り算とは重さを測る為の計算である。そう理解すれば最初は十分であろう。

割り算を個数で考えたらいけない。ふたつに分けたら個数は二倍になる。だが重さが半分になる。\(400 \div 2 = 200\)。

400ポンドのステーキを2枚に分けると重さは200ポンドになる。さて、ふたつに切った時にその二枚が同じであるとどうすれば確かめられるか。

それは天秤を使って二枚のステーキを測ればいい。同じ重さなら天秤は吊り合う。でも切ってから図るよりも、切る前に何グラムになればいいかが分かった方が便利そうだ。それを求めるのに割り算がある。

割り算

ステーキ肉を重さで比較するには、単位として1ポンドが必要だ。400ポンドのステーキ肉を半分に分ける。この時、2つの肉の塊が出来るけれど、公平に分けるなら重要なのは重さである。どちらが脂身が多いとかはここでは問わない。

400ポンドの肉を等しく二つに切ったら200ポンドの肉になる。これは\(400 \div 2 = 200\)で確認できる。枚数は1枚から2枚に増えたけど、その重さが \(\frac{1}{2}\) の半分になっている。2枚がぞれぞれ元の重さの\(\frac{1}{2}\)になっているなら、この比率から等しく分けられたと確認できる。\(\frac{200}{400}=\frac{1}{2}\)

割り算は比を求めるとも考えられるから、400ポンドのステーキを2枚にした時には200ポンドと求められる。\(400 \div 2 = 200\)。それが元のステーキに対してどれくらいの分量になったかは元の重さと比べてみればいい。\(200 \div 400 = 0.5\)。

とは言え3枚に切り分ける場合は割り切れない。\(400 \div 3 = 133 ... 1\)。どうしても1ポンドが余る。さて困った、とは言え残りが小さくなったなら目分量で適当に三分割しても誰も気にはならないだろう。

1の性質

もし1しか数がなければ掛け算と割り算には面白みがない。数が増えも減りもしないから。\(1 \times 1=1, 1 \div 1=1\)。

1に1を足す事で新しい数が生まれる。(\1+1=2\)。そうなると掛け算や割り算に面白みが増す。

0の性質

0を導入する。この0は少し不思議な数で、0を掛けるとあらゆる数が0になる。\(2 \times 0=0\)。しかし0を足しても数は変化しない。\(2 + 0=2\)。

この0の特別な振る舞いは他の数と少し区別できる。恐らく0の中には無限とつながる何かがあるのだろう。だからかも知れないが、0では割ってはいけない事になっている。

conditonformulanumber
基準となる元の数
足しても元の数を変えない数\(n+0=n\)
足すと0となる数\(1+(-1)=0\)-1
足すと1となる数\(n+(-n+1)=1\)-n+1
掛けても元の数を変えない数\(1 \times 1=1\)1
掛けて0となる数\(1 \times 0=0\)
掛けて1となる数\(n \times \frac{1}{n}\)=1\(\frac{1}{n}\)(逆数)

逆数

割り算は逆数を掛ける事に等しい。逆数とは掛けて1になる数。\(\frac{10}{10}=10 \times \frac{1}{10}=1\)。

これを解釈するなら、逆数とは1との比率(割合)と考えられる。これは新しい元(基準となる1)を1から他の数に変更する操作とも考えられる。5に逆数の\(\frac{1}{4}\)を掛けると、従来まで5と数えられていた数は\(\frac{5}{4}=1\frac{1}{4}\)に代わる。5は4よりも\(\frac{1}{4}\)だけ大きいという意味にもなる。これは4を基準とした時の5の大きさと考えらえる。また従来の1が\(\frac{1}{4}\)に変わったとも考えられる。

また、ある整数を逆数にするとは、無限大のなかのどこかにある数を-1から1の間のどこかに配置する事に等しい。これは確率の範囲でもある。

400ポンドのステーキを2つに分けると200ポンドのステーキが2つできる。400の逆数は\(\frac{1}{400}\)だから、400ポンドのステーキを1にできる。この時、単位としてポンドフォーと名付ける。400ポンド=1ポンドフォーとする。\(400 \times \frac{1}{400}=1\)。

1ポンドフォーのステーキを半分にすれば、\(\frac{1}{2}\)ポンドフォーのステーキになる。これを更に逆数で割る(逆数の逆数で掛ける)と元のポンドに戻る。\(\frac{1}{2} \div \frac{1}{400} = \frac{1}{2} \times \frac{400}{1} = 200\)。

斯様に400ポンドのステーキ肉は実際に図れるものであるが、逆数は全くの架空の数値である。必要に応じて生まれた数値である。どこにも実存していない。計算するために発生した数である。だから数えられない。

400ポンドのステーキ肉を二人で分けるイメージがあるから\(400 \div 2 = 200\)という式が成り立つ。所が逆数を掛ける式\(400 \times \frac{1}{2} = 200\)では、この数字はどこから?という気がしてくる。

二人ではなく、半分にする、という意図が\(\frac{1}{2}\)にはある。これは数値でありながら、既に演算子的な振る舞いをしている。演算子に近いから数値ではない、そんな混在感が割り算には潜んでいる。これが割り算が分かりにくい理由だろう。

数えられる数、数えられない数


ステーキ肉の枚数、お客さんの数などは数えられる。フォークの数、ナイフの数、ソースの数、人参グラッセの数も数えられる。ひとつのステーキがあれば、それに付随して必要なフォークの数が決まる。添えられるグラッセの数も決まる。ソースの数はお店て決まっている。

しかし数は数えられるものだけではない。数えられないものも数になっている。例えばステーキの長さ、重さ、調理温度、調理時間などが数えられない数である。これらは人間は数えられないけれど、定規、秤、温度計、時計など基準となる1を作る事で数えられるようにした数になる。

更には、どうしても数えられない数がある。例えば\(\frac{1}{2}\)は数えられない。凡そ0.5も数えられない。それでも0.5倍という使い方ができる。

数には数えられる数と数えられない数があるけれど、どちらも数としては扱える訳である。だからこれらは足したり掛けたりできる。例えば、ステーキ肉400ポンドとナイフの個数4つを足す事もできる。\(400 + 4 = 404)。ただしこの足し算にどんな意味があるかはよく分からない。

数には意味のある数とない数がある。なぜ意味がないかと言えば、その数の意味を説明できないからだ。

ステーキ2つとグラッセ3つを合わせると5になる。この5つをなんと呼ぶか。ステーキが5つではない。グラッセが5つでもない。この5に意味を持たせたいなら、お皿にある数だろう。

ステーキとグラッセを併せて呼ぶ名前はない。例えばりんごとみかんなら果物と呼べる。だからステーキとグラッセを合わせたものをステッセとでも呼べば、5つのステッセがあると言える。これは、これで便利な単位かどうかは分からないがとりあえず意味は理解できる。

だからそこに意味が見出せないからと言って、必ずしもそこに意味がないとまでは言えない。自分にその意味が理解できていないだけの可能性はある。

発見にはその時なりの順序がある。この順序は一種の物語だからその順序で理解するのはストーリーとして便利だ。しかし発見後は全てが等価となるので順序の物語が消滅する。そこに物語性を当て嵌めるのは却って不合理とも言えるだろう。この二つの間を行ったり来たりする所に面白みがある気がする。

多くの発見や発明もその類だろう。