第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
短くすると
第十条 日本国民たる要件は、法律で定める。第十一条 基本的人権。永久の権利として現在及び将来の国民に与へる。
第十二条 自由、権利は、不断の努力によつて保持。公共の福祉に利用する。
第十三条 個人尊重。生命、自由、幸福追求する権利は、尊重する。
第十四条 平等。人種、信条、性別、社会的身分、門地により、差別されない。
○2 華族、貴族は認めない。
○3 栄誉、勲章、栄典は、特権も伴はない。栄典の授与は一代限り。
要するに
人間は個人として生きる事ができるけど、油断してたら失うよ。考えるに
日本国民かどうかは法律で決める。これを決めないと憲法が誰にまでを影響を及ぼすかが決められない。これは憲法が日本国民とそれ以外の人では違う振る舞いをすることを示している。憲法は国民に権利、自由、福祉、個人、平等、などを保証する。それ以外の人には明言を避けている。ならば日本国民以外に対しては基本的人権を無視してもよいのか。理念や前文から言えばこの解釈は誤っている。だが憲法の及ぼす範囲はあくまで日本に限定する。この国を訪れ、居住する人に対してはどうせよと憲法は言うのだろうか。
近代国家では権利が全ての出発点である。他はそこから演繹すべきものだ。自由とは権利を行使する権利であり、それも権利のひとつに過ぎない。だからあらゆる権利を行使する自由をだれもが持っている。だが、法は何をやってもよいとは言わない。人間の自由に制限を課す。同様に個人の尊重も平等にも制限を設ける。
制限しなければ守られないものとは何であろうか。孔子はそのような状態を「民免れて恥づること無し」と呼んだ。人々は法の抜け道を探すことが賢い事だと考えるはずだ。では憲法とはそのような人々に抜け道を教えるものなのか。憲法が制限を設けるとき、制限に特別な意味があるのではない。その制限のひとつひとつが法の理念を語るのである。
当然、あらゆる権利を人々は潜在的に持っている。しかし権利を行使する事は無償ではないし無制限でもない。権利の行使には対価を払う必要がある。
例えば、人間は誰でも黒人を奴隷にする権利を生まれつき持っている。それは白人であれ、黄人であれ、誰を奴隷にするのも自由である。その自由を人間は有する。嘗てその権利を行使できる地域が存在した。しかし現在の社会はそれに高い対価を求めている。それを正当に行使したければそれだけの対価を払わねばならない。
もしあなたが誰かを奴隷にしたければ国の王となり敵対者を全て排除し法からも神からも非難されないだけの国を作る必要がある。他国からの介入を実力で排し、奴隷を維持し続けるだけの力を持て。もしその対価を払わずに行使したならば、死刑を含む極めて厳しい罰則が待っている。それらは法によって決められている。だが、その正当性は法にあるのではない。
力さえあれば何をしてもよいのか。その通りである。それを制限する存在はこの世界には存在しない。だから我々は国家を必要とする。国家は憲法の抱卵である。力により権利の行使を保証し、かつ禁止する。どのような理想であれ憲法は国家を超えた所にその影響を行使できない。
第11条で、なぜ、起草者たちは、基本的人権を「永久の権利」として「将来の国民」にまで与えたのか。これはとても大切な国家への要求である。如何に憲法が改正されようが、この条項がある限り基本的人権を保証する。そのとき起草者たちがいつか来る独裁者を意識しなかったはずがない。彼らはその独裁者に向けてこの条項を書いた。この憲法は未来の独裁者に対する宣戦布告でもある。
第12条で、なぜ、起草者たちは国民に「国民の不断の努力」を求めるのか。憲法に記述しただけでは実効を持たない。死文と化す。それを守護できるのは今を生きる国民だけである。それを起草者たちは知っていた。憲法など簡単に殺せるのだと。
アジアにおける統治の理想は、鼓腹撃壌であった。統治者を気にしないでいる事が理想的な統治の姿と考えた。
日の出と共に働きに出て
日の入と共に休みに帰る
水を飲みたければ井戸を掘って飲み
飯を食いたければ田畑を耕して食う
帝の力のなにが私と関係しているのか
民主主義はそういう理想ではない。
第13条で、なぜ、起草者は「尊重」と書くのか。尊重では解釈の余地が大きすぎる。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」はアメリカ独立宣言に由来する。
アメリカ独立宣言(1776年)
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。
独立宣言ではこれらの権利の正当性は「信じ」られている。そしてこの権利が確保できないならば「革命」すべきと訴える。だが我々の憲法はこれとは違う構造を取る。尊重である。尊重とは何か。尊重とは気持ちひとつの問題ではないか。尊重というあやふやなものの上にこの国の権利を置いた。そこに、この条項の重要さがある。権利とは状況によっては尊重されるだけに留まる可能性がある。だがそこには最大限の尊重を要求する。尊重とは何か。もし尊重しない人間が登場したらどうなるのか?
第14条で、なぜ、起草者は「政治的、経済的、社会的関係」の差別を禁止したのか。それ以外の差別はどうなるのか。差別の定義とは何か。この一見、何ら誤解の余地もない条文が、良く考えると難しい、政治的に差別するとはどういう事か。経済的な差別とはどういうものか。社会的な差別にはどんなものがあるのか。それ以外の差別はどうなるのか。
憲法は完全な記載物ではない。時代に問い掛け、何度も考える事に意味がある。もとからそうなるように作られている。都合が悪いから改正するのではない。時代に合わないから消すものでもない。対話が民主主義の根幹であるが、それは国民同士、議員同士が対話すれば済むものではない。民主主義とは憲法と対話することなのである。我々の問い掛けを憲法は待っている。もちろん憲法にその答えは書いてない。