これは研究の結果ではなく、ざっくりとした仮定である。
失敗の道理 - 安全と信用と失敗の類似性
情報の伝達 I - 報告について, ランチェスターの法則
情報の伝達 II - ディズニーのSCSE
コミュニティへの参加には次の3つの状態がある。
日本の大学は入学するのが難しい、アメリカの大学は卒業するのが難しい、と言われる。これは、日本の大学は入る事でコミュニティに参加できる、アメリカの大学は出る事でコミュニティに参加できる、と見做す事ができる。この考え方は、他のコミュニティにも敷衍できると思われる。
- 入口で厳しいコミュニティ
- 出口で厳しいコミュニティ
入口に関門を設ける。関門を通るには許可が要る。許可の為に試験や儀式がある。この関門には易しい、厳しいがある。
コミュニティへの参加を許可された者は、コミュニティの信頼を得る事ができる。この信頼の強さは入口の厳しさと比例する。あるコミュニティに属せば見知らぬ者の間にも信頼関係が造成される。それはコミュニティの審査、試験を通過したという事が、その人をコミュニティが保証している事を意味するからである。関門の厳しさは、この保証の強さである。
信頼は裏切られても許すが、信用は許さない。コミュニティはこの信頼によって支えられる。もちろんどんな裏切りも許す訳ではない。コミュニティの信頼は無制限ではない。その限度はコミュニティ毎に異なる。
コミュニティが与える信頼は強力である。この信頼が人間関係のコストを下げる。コミュニティへの信頼が人間関係の信頼と同じになる。コミュニティがそれを保証する。コミュニティは信頼関係を安いコストで提供する。コミュニティに属する事にはメリットがある。それ故にコミュニティに参加する人はコミュニティが長く存続するよう良い改善を与えようとする。
家族や親族もコミュニティのひとつである。生れてくることでこのコミュニティに無条件で参加できる。それ以外で参加するには婚姻がある。もちろん社会通念から生れた瞬間から参加を拒絶された人もいる。
日本という国に参加するのは難しい。その条件は厳しく、明文化もされていない。国籍だけでは不十分である。帰化だけでは受け入れらない。この国に生まれ育たなければ日本というコミュニティに参加したことにならない。それが排他的と外部には映るかも知れない。
罪を憎んで人を憎まずは同じコミュニティだから成立する。本気の憎しみは相手をコミュニティから追放する。
アメリカのような多民族の国家はコミュニティへ参加するのは易しい。富んだ者も貧しい者も世界中から移民する。アメリカは来る事には寛大である。入口が易しいのでコミュニティに参加する事で得られる信頼は小さい。
それ故にお互いを理解するためのコストが必要になる。そのコストが議論である。自分の主張をするのは自分の意見と通す為ではない、信頼関係を構築するためのコストである。
多様な人の集合であるため行動も制限できない。だから行動の自由がある代りに後から自分の行動を説明する事が求められる。responsibility は責任の事ではない。コミュニティへの説明であり、お互いを理解し、信頼するための手段である。
そこで理解が得られず、信頼できない場合は罰則がある。行動の自由がある以上、罰則は厳しくなる。そうしなければコミュニティの抑止力がない。こうして出口を厳しくするのである。
何かが起きる前に規制して抑止するのか、何かが起きた時に罰則で抑止するのか。入口が厳しいコミュニティでは、何かが起きないように予め調整する。その代りそこで起きた事はコミュニティ全体で対処する。
入口が易しいコミュニティでは、行動の自由を与える。相手への理解が不足しているため行動を前もって規制する事ができないからだ。それは多様な価値観や文化を持つコミュニティになりやすい。問題は起きてから対処する。その対応は理解する所から始まる。説明を求めるのだ。
規制は、官僚が好き勝手にやっている訳ではない。法律があり、それを稼働させるために、手続きがいる。通常は書類である。それがなければ許可できない、それを行政と言う。
規制を縮小するには法律を変える必要がある。規制を撤廃をしたければ法律を廃法するのが一番早い。規制を緩くすると過誤も増えるし悪用も増える。それに規制を強化せずに対応するなら、入口での点検を強化しないのなら、出口を強化するしかない。つまり罰則を強くするしかない。入り口で規制を強めるか、出口で罰則を強化するか。このトレードオフしかない。
入口が厳しいコミュニティは中に入ると過ごし易い。幾ら酷くてもそこまではしないだろう、という信頼が共有され、それが前提となって人間関係を成り立つ。
入口が易しいコミュニティには自由がある。どこにコストを払うかで仕組みが変わる。どの時期に最大のコストを払うかである。これは善悪ではなく、構造の違いが、人間の関係性、信頼関係、行動、問題へのアプローチの違いとなる一例である。またコミュニティの外に対しては無関心になりやすい。
入口が厳しい | 入口が易しい |
関門が厳しい | 懲罰が厳しい |
入学試験が厳しい | 卒業試験が厳しい |
参加すると強い信頼がある | 参加しても強い信頼はない |
理解してから参加 | 参加してから理解 |
共同体を形成 | 組織を形成 |
以心伝心 | 議論 |
排他・閉鎖・秘密 | 公開・オープン |
信用を重視 | 契約を重視 |
合議で遂行 | 役割で遂行 |
責任を分担する | 責任は個人に帰す |
結果責任 | 説明責任 |
義務は平等に分担 | 義務は役割に応じる |
規制 | 罰則 |
問題が起きる前に防止する | 問題が起きてから対処する |
見捨てない | 見捨てる |
内部をかばう | 内部をかばわない |
贔屓する | 贔屓しない |
個人を重視 | 組織を重視 |
個人は取り換え不能 | 個人は取り換え可能 |
犯罪に寛容 | 犯罪に厳しい |
失敗に厳しい | 失敗に寛容 |
単一民族的 | 多民族的 |
日本の罰則は厳しく設定されている。しかし運用は担当者の裁量に任せる。通常は緩く運用し、問題がある時に厳しくする。運用に幅を持たせる事で緊急時にも対応する。これが成立するのは運用者への信頼があるからである。
最近の日本はこの運用の幅を認めない方向に進んでいる。それが公平であるという世論が形成されつつある。これはコミュニティの質が変わりつつあるからだろうか。
戦前の陸軍は中国大陸で暴走をしたが誰にも止められなかった。厳しい罰則も与えなかった。石原莞爾が満州国を建国した時に彼を厳しく罰しておけばよかった。彼をきちんと死刑にしておけばよかった。そうすれば日本は全く違った歴史を、どのような未来かは分からぬが、歩む事ができただろう。
厳しく罰するには陸軍は優しすぎた。厳罰はこのコミュニティでは無理であった。それができるのは全く違うコミュニティである。もし陸軍が全く違った性質のコミュニティであったなら歴史は全く違ったであろう。それは日本というコミュニティも全く違う事を意味する。ならばこの国の全ての歴史が違っていたはずである。
歴史が全く異なる前提で、ひとつひとつの事件を語っても仕方ないか。結局その暴走は梅津美治郎が関東軍総司令官 (1942) に就任し、部下を処罰するのを待つしかなかったのである。