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2014年2月2日日曜日

クジラを食べる人、食べない人

@see クジラやらマグロやらうなぎの話し

イルカであろうが、クジラであろうが、牛、羊であろうが、食べる事に関しては、人間は地球上の生物の頂点に君臨している。だから、我々は食べる事はあっても生きている間に食べられる事を認めない(死後は別だが)。

その前提に立てば、どれを食べるか、食べないかは人間の選択に自由があり、歴史や文化、風習に過ぎない。クジラ、イルカ漁に反対する人は、自覚している理由はどうであれ、自分の中に湧き上がった感情に素直であろう。もちろんクジラの美味しさを知っている人も、自分の中にある感情に素直であろう。

とかく生きる事に苦労していた時代には、クジラは御馳走であった。その証拠にクジラ、イルカ漁に反対している人は、どれもみな飽食で、かつ自分で他の生物を殺して食す経験が希薄であろうと思われる。

そう推測するが、どうも人間の多様性は大きく進化上の欠陥を抱えているらしく、クジラには反対だがシカ猟は問題ない、とか言う人まで現れるからややこしい。

遊戯としての狩猟は既に狩られる側に勝ち目などなく、とても狩る側と狩られる側の立場にフェアはない。人間の道具が優れ過ぎている。そのような道具を使っておいて、知恵比べと言える人には、恐らく脳に致命的欠陥がある。圧倒的な道具を手にして己の命も危険に晒すことなく相手の命を奪う。それを楽しいと言う人は一度は狩られる側に立つべきであろう。

知恵比べを言いたいなら、対等な条件、フェアな道具を使うべきだろう。ライフル、弓矢はオーバースペックだ。せいぜい槍である。

クジラ漁を見て悲しくなる人たちはどういう感情であろうかとつらつら思う。恐らくあれはクジラの問題ではない。彼らは海を泳ぐクジラに人間の姿を見ている。数世紀前に多くの種族が人間に狩られて滅亡した。そういう歴史がありながら今ではクジラに人間の姿を投影する。そうしなければならぬほど、我々は自由気ままに狩り過ぎたのではないか。

もし人間が食う側から食われる側になった時。人間は如何に抗弁するのであろうか。そういう問題がクジラにある。あそこにいるのはクジラではなく、追われる立場に姿を変えた人間そのものだ。それに抗弁する言葉を人間は持っていない。なぜ我々は食べる事はできても食べられてはならないのか。その漠然とした疑問が彼らをクジラ漁への反対と赴かせるのではないか。

これは別に新しい考えではない。直近ではハンターハンターのアント編に取り上げられた題材だ。

我々はこれに対する答えを持っていない。どのような哲学も人間を食べる側に置く。食べられる側においた哲学などありはしない。もしどこからか宇宙人が来て人間を狩り始めたとしたら。そこでわれわれはそれでも人間は素晴らしいと、主張すべき哲学がない(若干はある。ルソーのパンセなどに)。

@see Man is but a reed - Blaise Pascal

クジラ漁の問題とは、食べる側と食べられる側の論争だと思う。だから平行線だと思う。川のこちら側とむこう側でどちらが右に立っているかをどれだけ論じてみた所で答えなど出るわけなどない。だが自分達が何を論じているのかを把握しておく事は大切と思う。

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