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2014年1月23日木曜日

民主党へ - 政策で負ける理由

民主党の戦犯が鳩山由紀夫である事は論を待たないのですが、だからと言って彼が極悪非道の人物であるかは論を待つものでしょう。首相としては無能であった事は間違いありませんが、人間として失格とまでは言えません。ただ彼の成した事の不幸は大きいとだけ言っておきます。

さて民主党が大敗した原因に政策で戦った事が挙げられます。政策を組み、スケジュールを立て、マニフェストとして約束したのは新しい方法でした。しかし本質的に政治とは約束できないものです。確定していない未来を約束をするものは詐欺師だからです。

だれも未来を約束する事はできません。だから政策も約束できません。なぜなら政策は実現するものです。それを約束するなら実現する前に実現した姿を示さねばなりません。

どのような政策も実現する過程で訂正や修正が必要になります。その実務は立法だけでなく行政の手腕も重要です。やってみなければ分からないのは予想の範囲です。

理念やビジョンが簡単に実現できるなら政策などいらない。問題を解決するものが政策でしょう。ならば政策とは何か。それは法律ではありません、事業でもありません、マニフェストでもない。政策とは予算を付ける事です。予算を組むことです。

しかし政策は予算を付けて終りではない。予算の執行が適切かを監視する必要がある。それが民主党の主張でしょう。政策を立ててもそれを実現する過程で意味のないものに変わっている可能性がある。その時に臨機応変に対応できる方が望ましい。そういう主張であったはずです。

しかし、民主党が訴えたものは、政策という名の未来像でした。それは固定化された未来像でした。何かが変わるという期待でした。その期待の前では、訂正するという行為、遅延、目標の再設定、それらの実務的な変更は、全て約束破りに映りました。約束と違う、そうなれば何の支持も得られないのです。

政策を含め理念もビジョンも実現を約束するものではありません。それは目標地点ではあっても、到達地点とは限りません。誰も将来が確約できないように、理念もビジョンも約束してはいけないのです。

だれが民主党が政権を取った時に、あのような大震災が来ると予想できたでしょう。だれが民主党が政権を取った時に、まっさきに普天間基地の問題に取り組むなどと予想をできたでしょう。

では民主党は何を約束すべきだったでしょう。

理念もビジョンもその先にある政策も、民主党の武器でした。それがわたしたちの手中にある。これだけの武器があります。わたしたちを支持して欲しい。それが民主党のやり方でしょう。

であれば、武器が通用しなかったらどうしますか。二の矢三の矢がある事は大前提です。ここを目指します、もしダメならこうします。最高でここまで出来る、最低でもここまではする。準備は万端です。そう話すべきでしょうし、それ以外の戦い方はない。民主党は準備によって戦うしかないと言えるのです。

政権をとった民主党は行動で示した。インプットを変えてみせた。それは期待溢れるものでした。しかし重要なのはインプットではない。人々は直ぐに気付いた。この人たちは四の五の言わせずに従わす力量がないと。その時から単なるパフォーマーになった。力量がないなら準備が万端でなければならなかった。しかし力量もなく準備も万端ではなかった。それを世間は見抜いた。

民主党は政策で負けたのではない。準備不足で負けた。実行力と実現力で負けた。

自民党の原理は何か。それは、勝つ側に付く、でしょう。勝利への嗅覚がある。それが彼らを支持するたったひとつの根拠です。自民党の説明責任は単純です。なぜこうしたか、こちらが勝利するからです。その嗅覚が一致する限りはこの説明で十分なのです。

日本でスポーツ新聞が読まれるのは何故か。政治経済の動向より野球の勝敗が興味を引くのは何故か。それは勝利への嗅覚を鍛える為でしょう。

政治経済を幾ら読んだ所で勝利への嗅覚は鍛えられません。しかし野球やサッカー、ゴルフなど勝負の場を通じてなら、勝敗のあやふやさ、恐ろしさ、敗者の一撃、そういったものに触れる事で勝利する側を見抜く嗅覚が鍛えられるのです。

この原理は時代を超える日本の真理です。一万年前にも通用し一万年後にも通用します。空気を読むという独自の文化もこの原理があるから成立するのです。その原理が支配する場において相手を打ち倒すには次のふたつの方法があるでしょう。

  1. 彼らに付く事は敗者への道であると示す(勝敗の転換)
  2. 勝敗だけが重要ではないと示す(価値の転換)

多くの人がここで関ケ原の戦いを思い出すかも知れません。東軍か西軍か。この選択の前で多くは勝者の側に付いた。しかし、若干の者たちは、敗者を承知の上で敢えて西軍に付いた。勝敗は徳川の手に落ちたけれど、歴史が示す通り、西軍が弱者だから負けたのではない。その敗者が 250 年後には明治維新の原動力となった。

政治とは何か。政治とは乃ち大衆とは何であるかを定義する事と同じでしょう。大衆は説明を欲しない。勝つのはどちらであるか、その嗅覚を頼りに生きている。大衆は見ない。大衆は聞かない。しかし嗅覚は鋭い。その嗅覚を頼り決める。しかし欠点もある。もし嗅覚に引っ掛からなければ、例え目の前でどのような非道が行われても気付かない。

理念やビジョンは絵姿でしょう。それは止まった絵です。そこに力はない。力は理念にもビジョンにもない。力は原理にある。

原理に到着点はありません。これは道の歩き方です。我々はこういう時にこう判断する、何故ならこういう原理に則るからである。原理があれば説明責任を果たせる。それさえあれば、将来の未知の問題に対して、どう動くかが予想できる。もし違っても原理を中心に説明できる。

問題が先ずあるのです。そこが出発点になりその解決を欲します。そこに最初の理念が生まれます。理念とはこうではいけないと言う思いでしょう。ではどうするか、と考える。それが政策でしょう。策が生まれればその結果が見える。つまりビジョンです。ここまでは発想力です。

その先に実行力がある。その権利を得るためには政権交代が必要だ。実行していれば様々な問題が起きる。その時にどう判断するか。その基準が原理になる。行動するための基準になる。この原理があって初めて実現する力が成立します。

原理には柔軟さを要します。原理が何か目標を実現するための基準であり、原理は到達したい場所のためにあり、原理を守る事が目的とはならないはずです。

まず問題は何かを定義してください。次に原理を示してください。自民党が勝つ側に付くなら、民主党は弱い側に立つ、でいいのではないでしょうか。問題と原理ががあれば理念もビジョンも政策もそう遠くない場所に見つかるでしょう。

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