一人の男がいる。
歴史が彼を必要とした時、忽然として現われ、
その使命が終わると、大急ぎで去った。
もし維新というものが正義であるとすれば、
彼の役目は、津々浦々の枯木に
その花を咲かせてまわる事であった。
中国では花咲爺いの事を花神という。
彼は、花神の仕事を背負ったのかもしれない。
彼―村田蔵六、後の大村益次郎である。
NHKの大河ドラマで中村梅之助が演じて以来そのイメージを他に見ることが出来ない。
小高昌文の語りを耳にすればこれが他の語りに置き換わるのは考えられない。
花神はドラマも小説もどちらも捨てがたい。
まずタイトルがいい。
花神、聞きなれない日本語である。
この言葉がどうして大村益次郎へと結び付くのか。
いや恐らく、幕末にはこのような花咲じじいはあちこちにいたのである。
そして花が咲くのを見る前に逝ってしまった。多くが。
この一風変わった人は可なり小説に成り難かった。と言うのは想像に難くない。
無口であり手紙は残っているが、彼が行った業績と比べればなんと逸話の少ないことか。
彼を技術者と呼んだのは正しくそうで、彼の頭の中で起きていたことは今や昔の戦争の技術であった。作戦の苦心や工夫を語っても小説には成り難い。
しかし彼が居なければ幕末は相当違った様相を見せたと思えばその魅力も捨て去り難い。
どうすればこの人の事がより多くの人に伝わるだろう。
僕が感じたこの面白さを多くの人に伝えるにはどうすればいいだろう。
それには僕が感じている問題意識を伝える事はどうしても避けて通れないはずだ。
これは小説である、それは今の時代に合うように脚色もされた。
しかしそれを単に脚色と言うか、彼はありありとそれを見ていたに違いないのだ。
そうやって書かれた司馬遼太郎の描く幕末は現代色で染められている。
そうやって染めてくれたお蔭で分かり易く非常に読み易い且つ面白い。
作者の苦心の後であるが、ここに解釈というものが持つもう一つの魅力がある。
実際、当代一の資料を収集しその上に構築されたこの小説は既に僕達の常識だ。
彼の手により知る事が出来た人物は数多い。
司馬史観と呼ばれる一種の歴史観を批判する人もいる。
この史観を主張したくて小説にした訳でもあるまい、
というのは読めば分かる事である。
そうであればそう見えるのも脚色の一つに過ぎぬだろう。
これは小説の面白さの中心にあるものではなかろう。
そしてこれらを批判する者達も多くは彼が耕した土壌の上に咲いた花に過ぎぬ。
その作品の上に立つ多くの花の一つに過ぎぬ。
どのような作品でも細部においては好みはあるものだ。
如何様な作品であれ批判も可能であるし、見方もそれぞれ工夫できる。
自分の中に形作る歴史が小説と一致する必要は何もない。
彼の足場が何のために組まれ、それが何を成し得たかについて無自覚であってはいけない。
今風の物の見方では同意できぬ所もあるし誤解もあろう。
我々が見ている司馬遼太郎は勿論、色眼鏡で着色されている。
司馬遼太郎が見ている幕末も、色眼鏡で染められている。
それを司馬史観なるもの、と呼び一括りにするのは簡単であろう、
しかしその安易さには物語の面白さはないように思われる。
勿論、批判者もその批判に感じる面白さは、作品の魅力に重力があるなら、
その重力圏の中で起きている事を知っている。
さて誰の目にも正しく見える色と言うのはあるのだろうか。
例えば幕末に正しい色と言うのはあるのだろうか。
既に視覚とは脳内における神経のメカニズムであることは明確であるし
目という機構は電磁波の一部にしか反応しないという理解も進んでいる。
見るとは見たいものだけを見る事だ、というのは皮肉でも何でもない。
視るとは、見なくていいものを捨てるための生命のメカニズムである。
(眼の発生は光源の方角を知る所から始まり像を結ぶ方向に進化した。
その発生の起源や進化の過程にも面白い話しがある。)
どんな色を付けるか、
それは塗る者の自由であるが
またそれが何色に見えるかは見る側の自由である。
幕末においてさえ、100人いれば100人の言い分があったろう。
後世に一人の小説家が新しい言い分を加えた所で何の不都合があろう。
更に言えば、あなたが見ているその赤色を他の人も同じ色に見ているとは限らない。
目の構造は同じでも細胞も神経も脳も人それぞれに違う。
そうであればテレビが違えば色合いが異なって見える様に夫々に違うものが見えても不思議はない。
2000年前から残っている言葉はいずれも解釈されるものである。
如何様にも解釈され、それが尽きる事がない。
一つの解釈が答えになるような、そんなものが時代を超えて残る訳がないのだ。
詩人は自分の詩でさえ、別の意味を見つけ出すと言う。
同様に時代もまた様々な解釈が出来るものであるし、出来ぬものは歴史ではない。
はっきりとしているのは、自分にとってであって、それが他の人にとっても同じである理由はない。誰もが自分で解釈する事、他人の解釈を信じぬ事。
よってある色で染まっているから素晴らしい、と言う話しは面白くない。
色は即ちどんな優劣も示さない。
僕にはこの色に見える、という告白が面白いのだ。
さて、日本におけるドラマというのは声である。
声がいい。
どの声もいい、印象に残る。
これがドラマそのものと言える。
この"声"に加わるように演技というものがある。
この国には昔からサイレントという芸能はなかったのである。
篠田三郎演じる吉田寅次郎がこれまた好い。
歴史が動くのに誰かの血を欲する事がある。
アラブの春は、モハメド・ブアジジの死から始まった如く
明治維新も一人の青年の死を必要とした。
若し彼が死ぬことなくいれば、
幕末はずっと違ったものになっていた。
彼を死罪としたとき、
江戸幕府は自ら倒れる運命になった。
吉田松陰がその人である。
彼の死を飲み干した歴史は目覚め、明らかに運動を始めた。
誰一人欠けることなく多くの人の血を欲し、
それを飲み干しながら、歴史が進む。
誰も見た事がない事件が起き、新しい朝日の下には
誰も聞いた事がない一日が始まる。
君たちは功名をなすつもり、僕は忠義をなすつもり
蔵六の退屈でさえあるイネとの密会などどうでもよい。
近代化に対する見方はこれだけとは限らぬ。
それでもそういう所を取り去っても
やはり面白いのは司馬遼太郎の嗅覚の確かさだろうと思う。
我々には解釈しか出来ぬ、
だからどう正しく解釈するかを気にしても仕方がない。
正しさなど分からぬと答えるしかない。
もし解釈に誤りというものがあるのなら
それは何をもってそう言えるだろうか。
誰もが人生で積み重ねて来た中で見つけたものを
解釈の違いをもって切り捨てるような事が出来るだろうか。
我々の行動を未来の人達もまた解釈をする事だろう。
そして後世の評価が正しい保証もまたないのである。
今の信じる解釈に従って後世が困らぬと信ずる方へ行くしかないではないか。
今を生きる、には解釈する力は欠かせない。
それは信仰や信念の基にさえなる。
論理でさえ其れを積み重ねて新しい論理を生み出す仮定で多くの解釈が生まれる。
解釈は仮定であり推測であり発見であるのだ。
後世から見ればどれだけの事をやったろうか、
ただの一人の官僚に過ぎないではないか、
と言う人に命を吹き込んだのは、司馬遼太郎であり、かつ、中村梅之助である。
靖国神社の大村益次郎像を見上げながら思う所があるだろうか。
それは何か驚きに満ちた発見であったろうか。
描き方次第でどのように後世に残るか、これもまた恰好の題材であり、
そういう意味ではこの小説とこのドラマは歴史を造ったのだ。
蘇らせたと言ってもいい。
歴史とは評価するものでは勿論ない、それは解釈するものだ。
正しい歴史というものはない、ただ風雪に耐えている姿を見て、
僕達はそれぞれ思うところあり、と言うだけである。