2013/10/10
嗅覚の劣る担当者だったか、経験不足か、いかんともし難いか、そのいずれか。
2013/10/10
防御は嗅覚、行動は聴覚。検分の視覚、閃きの六感。決断は全感覚総動員。安らぎは味覚。
2013/10/11
その先に何かがあったはずなのに忘れてしまった。忘れている事だけを覚えている。馬鹿になってしまった。
2013/10/12
効率だけを追求するなら死ぬのが一番いい。だから効率だけを追求する組織は駄目に成るのだ。エントロピーで考えれば分かるかも知れない。
2013/10/12
地球って落ちこぼれの吹きだまりみたいな星で一番成績のいい国家でも100点満点で40点あるかないかと思っておけば人類としてはだいたい合ってる。
2013/10/15
勝ち馬に乗れの国民性。世界を広く見てないと間違える可能性が増える。
2013/10/24
口をすすぐのが蒸気機関車と同じリズムなのを発見した。
2013/10/25
ひとりで座っていようが、たくさんで座っていようが、同じ列車に乗った乗客に違いない。
2013/10/27
矛と盾。この故事の示すものは商売人の矛盾ではなく、どちらも必要で、どちらか一方だけが強い状態は考えにくい処にある。政府が強い盾を必要とするならその悪用を防ぎえる強い矛もセットで用意すべきであり、盾を弱める事だけを考えるのも片方だけを買おうとするのも違う。秘密保全法案。
2013/10/30
主柱のくさびが外れ、それまで繋がっていたものが次々と外れてゆく。
2013/10/30
思想は死んだ。誰もが勝者についてゆく。
2013/10/30
ラピュタはドーラが支えている。
2013/10/30
何の事はない。何も変わりたくない。それだけ。変わった事の反動かも知れないが。
2013/11/6
未来は分からないから可能性がある。未来とは選択の言い換えに過ぎないんだ。
2013/11/10
浅く広くやっても、狭く深くやっても面積はいっしょ。太く短くも細く長くも体積はいっしょ。
2013/11/11
人間とは風邪をひく動物であり、風邪が酷くなると大抵の事はどうでもよくなる。
2013/11/16
頭の良さとは正しい答えを知っていたり答えたり出来る事ではなく、突き詰めれば、気持ちよくする事。
2013/11/20
目に写っているものと意識が見ているものは同じではあるまい。
2013/11/20
一期一会なんてとても無理。
2013/11/20
日本がある事と政府がある事は一致しない。国民というより民。国民とは自らなるものらしい。
2013/11/21
一期一会って印象の事だよねぇ。どうすれば印象は残るのかという。
2013/11/21
新しい国の破滅はコンピュータ上で起きるかも知れない。あるアルゴリズムで組まれたアプリケーションが一斉に金融を再起不能なまでに破壊する。それが新しい衆愚。
2013/11/21
行き当たりばったりのくせにご都合主義の結果が待っているんだもん。
2013/11/21
これで勝ったらもう読まないだろうなー。
2013/11/24
他の選択肢を示さない限りどうしようもない。他がないのだから。
2013/11/24
悪用した者を罰則すればよい。それが法の理念だ。
2013/11/25
デンプシーロールの説明にナックルNO1が!
2013/11/26
陰陽とは世界の成り立ちがふたつに分類できる事ではなくて、ひとつのものから出来ていない事を表現する。一神教でも神の世界と人間とふたつの世界から成る。
2013/11/29
馬鹿の定義は口をつぐむ事が出来ない事だ。
2013/12/04
ぴたりと役にはまって大成する人もいれば努力して小さな役の人もいる。
2013/12/09
検事の名は出ない。組織対個人か個人対個人か。
2013/12/13
部品は使っているうちに劣化する。それが問題ではない。もしその部品を使い続けているならその状況に問題がありそれには原因があると考える。劣化は問題ではない。
2013/12/18
知識の組み合わせ方を知と呼ぶのだろうか。いや知には情感が内包されていなければならない。
2013/12/28
立ちくらみでふらふらーとする度に、シノハラノオートバランスハ逸品ダのセリフが聞こえてくる。
2013/12/28
2013/12/、この世界の誰かが将来を切り開くとっても大切なアイデアの着想を得たんだ、きっと。
stylesheet
2025年7月31日木曜日
2025年7月26日土曜日
切り抜きストーリー11
2013/08/22
君は人がゴミのようだと言ったそうだね?ようだとは何だね、ようだとは。人はゴミだろ。狼狽えて、みっともない人だね、君は。
2013/08/29
風立ちぬ
2013/08/31
pacific rim
2013/09/02
老魚が嘆く。「最近の若魚は尾は小さくひれは太く泳ぎが遅い。我々の若い時と比べ情けない限りだ。これから先どうやって水の中で生きて行けようか。」そばにいた坊やが言った。「でもおじいちゃん、若いお兄さんたちは水の中から陸へ上がっていくよ。泳ぎを捨てて、陸に上がるために変わったんだよ。」
2013/09/02
求められる姿を具象化していたらこうなってしまったの?
2013/09/03
ゆうきまさみは公務員を描けば日本一だと思った。振り返れば後藤さんも公務員だった。バーディーも公務員だった。今回もそうだし、いつか帝国陸海軍を描かないかな。
2013/09/08
自由という考え方は神という考え方と根本では結び付いているのではないか。
2013/09/08
ハウル
2013/09/10
たとえ別の世界の私が違う決断をしているのだとしても、関係ない。別の世界では成功しているのかも知れない。それも関係ない話だ。この世界を神々が作ったのだとしたら、この私の決断も神の意志に違いない。それを外から見ればたわわに実った葡萄畑にある一粒に過ぎぬだろう。
2013/09/13
重力と戦う女性の魅力。
2013/09/15
横浜から藤井と歩いて帰ろうとしている。アーケード街でかき氷を食べる。古い電車に乗ったりしているうちに、山の上に登り廃墟のビルの上にあがった。キュィンキュィンの音。たちまち津波がきて山の上まで波に飲まれる。浮遊物に二人で掴まって揺られている時に雨の音で夢から目が覚めた不思議。
2013/09/23
自分にさえ100%の信頼なんかおけないのに他人にそんな特権を与える訳がないじゃないか。
2013/09/27
宇宙人とコンタクトしたら、最初に交換すべきは周期表だし、人間の代表として紹介するのはシャーロックホームズだろう?
2013/09/27
だれもが先人の通った道を再び草刈りしながら歩いている。
2013/10/5
千と千尋の神隠し
君は人がゴミのようだと言ったそうだね?ようだとは何だね、ようだとは。人はゴミだろ。狼狽えて、みっともない人だね、君は。
2013/08/29
風立ちぬ
生きめやも。風が吹いた、ひとりであっても生きてゆこう。めは未来を表し、やは意志を表す。もが自分への問いかけになっている。そう聞こえる。
2013/08/29
かぐや姫の山や月は現代の山であり月である。風景の全てが今の風景に見える。平安時代のひとが見た山でも月でもなく。予告を見ながら、そう感じた。この映画は予感する。
2013/08/29
日本という風景。だけども剽窃。どこかで見たシーン。ホームズや紅やハウルで見た気がする。自分の作品からの剽窃という感覚。当たり前の話なんだけれど。カプローニがいい。声がいい。飛行機で映画が動き始めた。
2013/08/29
こんな地震の描き方を初めて見た。王蟲かよとばかりに瓦屋根が揺れる。そしてすぐに地震は止まる。この静寂とそれからの混乱。二度目の法則はあまり使っていない感じ。
2013/08/29
二郎の声。聞いて一秒経ってから庵野秀明と気付く。これはあれだ。あいつの声を知ってるやつが悪いってやつだ。初めて聞くのならあの顔を思い浮かべない。脳内から消せない自分が悪い。これまで世間でべらべら喋ってきた庵野が悪い。いい声。
2013/08/29
空母のシーンがいい。あれはいい。千尋のくされ神を思い浮かべた。
2013/08/29
この映画に戦争の匂いはひとつもない。それが匂うなら映画ではなく自分の体臭。僕たちは価値観を削ぎ落とさなければならない。理想を追いかけたら何の役にも立たない飛行機が生まれる。機銃を乗せたら云々は人も荷物も運べない飛行機という事。
2013/08/29
計算尺が物語の中心にある。2013/2013/08/号のニュートンにその使い方が載っている。使い方を知っているだけで印象がだいぶ変わる。計算尺が使える人は見るべし。
2013/08/29
汽車からの風景の遠くにある家家にも人人が住んでいる。そういう風に感じられる様にするには風景を長く描く、通りすがりの人もきちんと描く。ちはやふる(漫画)には及ばないまでも。遠くの何かもセルで動かしておく。夢と現実のモブシーンの描き分け。
2013/08/29
最後のシーンにはさようならとかありがとうの言葉があってもおかしくなかった。でもそうではなくてワインで良かった。
2013/08/29
宮崎駿が言葉にしなかったものを言葉にしても仕方がない。言葉にしても仕方がないと思ったものを言葉にしても嘘になる。でも何かを書きたくなるとしたらそれは礼状かも知れない。この映画は礼節の映画だから。
2013/08/29
レイ戦なんか嫌いとか言いながら、あんだけ美しい零戦を描きやがって、と思った。あんなに美しく動く零戦なんてどこにあるだろう。
2013/08/29
タバコの煙で前が見えない会議室のシーンさえなかった。気にするなら煙草よりも計算尺。
2013/08/29
言葉にできない何かがある。秘密でも思想でもなく彼が信じたものでもなく彼は信じられなかったものを描いた。自分はこれを信じているが君に信じろなんてとても言える代物ではない。もののけに感じたあれ。
2013/08/29
訳も分からず泣きそうな所が数カ所ある。理由は分からない。そのどれも宮崎駿が泣いた所じゃないだろう。スタッフの顔が思い出されて泣いたのかなあ。映画で涙が止まらなかったのは泥の河。
2013/08/29
なんかよい日本の映画がやっと出来ました。という感じ。原作や実在の人物に敬意は表しても切り貼りして跡形もなくする。原作は幼虫で宮崎蛹を変態して作品になる。だから礼節はある。
2013/08/29
音が耳に残った。いい言葉なら印象がある。悪い言葉なら単調。それさっき聞いた感が繰り返す。
2013/08/29
なにかこうパチパチと野火が移ってきて取り囲まれて焼けてしまう。
2013/08/29
タン タターンタ タタタターンータ タンター
2013/08/31
誰かに作ってもらった感動なんていらない。映画は目の前にある風景に過ぎぬ。そこににじみ出る人の形にたじろぐ。
2013/08/31
自分が座れる小さな空間を確保する事が社会と関係するという事だ。書きたい事に迷いはない。分かってもらう様に描く事が難しい。作品とはそういうものだろう。それが自分を掘り当てると言う事ではないか。
2013/08/31
めんどくさいと言っているのなら、もうはっきりと見えて分かっている時分なんだ。
2013/08/31
この作品は擬似体験するものではないと思う。テーマを見つけるものでもない。いっしょに歩いてみる体験ではないだろうか。
2013/08/31
自分の世界観を語るしかない。しかも饒舌に。作品が沈黙しているから。
2013/09/21
はだしのゲンも読み始めたら止まらなかった。風立ちぬ と同じものを感じた。
2013/09/21
風立ちぬ と はたしのゲン は作品として兄弟だと感じた。不思議な感だ。これが誰かに正しく伝わるとは思っていない。
2013/08/31
pacific rim
設定の嘘を全力でリアリティを持たせるのが巧い。その肝となるのが組織。組織として合理性を持って成立するなら本物に見えてくる。必要ならその為の法律さえでっち上げていそう。
2013/08/31
怪獣であれども寄生虫がいたりDNAを解析したりと合理的。しかも別世界の生物と同じ構造のDNAなどという疑問をはさむ余地のないタイミングで言うもんだから、素直に受け入れてしまう。これはマジックだ。
2013/08/31
日本の巨大ロボットは坐って操縦が本流。この操縦はジャンボーグAのタイプ。
2013/08/31
日本のロボットは万能感と自由の象徴。個人の手足の延長であり自己の拡大という感じ。Pacific Rim にあるのはヒーローになるためのツール。組織の中のそれぞれの役割を全うする事が大事という感じ。同じ巨大ロボットでもずいぶんと違う。
2013/08/31
マジンガーの最終回と同じでやられて壊されて、そこから勝利に転ずるカタルシス。ストーリーはインディペンデンスデイの類型か。最後まで世界観を壊さないでいた。でも最後の救援ヘリはきっとアメリカ海軍なんだろうなあ。そのリアルさ。
2013/09/02
老魚が嘆く。「最近の若魚は尾は小さくひれは太く泳ぎが遅い。我々の若い時と比べ情けない限りだ。これから先どうやって水の中で生きて行けようか。」そばにいた坊やが言った。「でもおじいちゃん、若いお兄さんたちは水の中から陸へ上がっていくよ。泳ぎを捨てて、陸に上がるために変わったんだよ。」
2013/09/02
求められる姿を具象化していたらこうなってしまったの?
2013/09/03
ゆうきまさみは公務員を描けば日本一だと思った。振り返れば後藤さんも公務員だった。バーディーも公務員だった。今回もそうだし、いつか帝国陸海軍を描かないかな。
2013/09/08
自由という考え方は神という考え方と根本では結び付いているのではないか。
2013/09/08
ハウル
ソフィーの雛形ってシンデレラか。で王子と出会ってからの物語。
2013/09/08
文法は余計なものを取り除く為にある。それは理解を助けるものではあるがそれで作品を分かった気になると多分間違える。
2013/09/08
前半は荒地の魔女との対決、後半は戦争の行方、これら物語のコアがとちらもスルッとスルーされる。
2013/09/08
ソフィーの見た目を若くしたり年とらせたりコロコロ変えなければならないのだからラブストーリーではない。おばあちゃんのままなら納得できるけど。おばあちゃんは城に乗り込むための方便であって魔法をいつどう解くかはスルーされた。
2013/09/08
謎解きをクライマックスにするような映画ではない。戦争のなかにファンタジーは成立出来るのかを試そうとしたのか。ならばこの映画の中のファンタジーとは何か。
2013/09/08
ファンタジーの特徴は説明を必要とすることか。カルシファーが存在感がある。
2013/09/08
お城に行く所が関係者が一堂に集まる最初の盛り上がりになるはずであった。だがここには安易な対決を配置しなかった。ここから物語はラピュタと似たお城の謎が中心となる構造で進む。
2013/09/08
ソフィーを次第に若くしてゆくのは、まるで各年代の女性を描くためのようにも思えてくる。で王子さまのキスで魔法が解けたら、あとはずっと若い。それは安易。
2013/09/08
物語を繋げるために説得力のない行動もある。それでもソフィーが草原から歩いて帰るシーンにやっとたどり着いた。
2013/09/08
エンディングを見る限りこれはシンデレラとか眠り姫みたいなおとぎ話。ただ19世紀頃を舞台にすればおとぎ話はこうなるというお話。
2013/09/08
初めて見た時は、はっきりと戦争を描いた作品と思った。けれどこの映画は何だろうかとも思った。何を描こうとしたのか不思議だった。反戦でもラブストーリーでもない何か。面白くなりそうな予感とエピソードの連続。そして物語の終り。なぜ人は物語の終りというものを認識できるのだろう。
2013/09/10
たとえ別の世界の私が違う決断をしているのだとしても、関係ない。別の世界では成功しているのかも知れない。それも関係ない話だ。この世界を神々が作ったのだとしたら、この私の決断も神の意志に違いない。それを外から見ればたわわに実った葡萄畑にある一粒に過ぎぬだろう。
2013/09/13
重力と戦う女性の魅力。
2013/09/15
横浜から藤井と歩いて帰ろうとしている。アーケード街でかき氷を食べる。古い電車に乗ったりしているうちに、山の上に登り廃墟のビルの上にあがった。キュィンキュィンの音。たちまち津波がきて山の上まで波に飲まれる。浮遊物に二人で掴まって揺られている時に雨の音で夢から目が覚めた不思議。
2013/09/23
自分にさえ100%の信頼なんかおけないのに他人にそんな特権を与える訳がないじゃないか。
2013/09/27
宇宙人とコンタクトしたら、最初に交換すべきは周期表だし、人間の代表として紹介するのはシャーロックホームズだろう?
2013/09/27
だれもが先人の通った道を再び草刈りしながら歩いている。
2013/10/5
千と千尋の神隠し
食事のシーンというのはいっぱいあるけれど、ものを食べる演技はそんなに見れるものではない。
2013/10/5
親から離れて社会の中に入ってゆく。この映画は受け入れる側を描いた物語。
2013/10/5
名前を奪い魔法は使えても自分の子供も見分けられない何も知らない人だ。
2013/10/5
物語の整合性はどうでもいい所があって、それよりもちょっとしたシーンや風景や描き方の方がずうっと大切だし印象に残る。それらが何処へ行こうとするのか。
2013/10/5
よくもまあこういったものを思い付き構成し配置してひとつの流れにまとめるもんだて。
2013/10/5
作り方のコツとしては既存のテンプレートを幾つも持っておき、取り出しては細部を加工したり、新しく起こしたりしながら配置をする。配置とは言語であれ絵具であれ音符であれ数字であれ構造上は同じ。だか置いたり組み合わすだけでは配置ではない。
2025年7月6日日曜日
ヨブ記2
悪魔が人間の信仰を試してみたいと問うた。神はこれを諾しヨブを選んだ。悪魔はさっそくヨブのところに行き、様々な苦難をヨブに与え始めた。
わしが生まれた時にはもういる神だから、何も考えずに信心を注いできた。短いながらも生きた経験に照らすなら人間には元来信心がある。それがどこに向かうかはわしの勝手ではない。生まれ落ちた場所や時代で決まる。わしの知らない神を信仰する人なら幾らでも会って来た。
偶々目の前に居た神だ。わしの信仰心がどこに向かうなど偶然だ。もっと東の地で生まれていたら、別の何かを信じていたであろう。
わしの信仰心もそうとうに見上げたものである筈だ。なんせわしは自分の子まで捧げた。やつの望みも受け入れた。もし生贄にせよと命じられたなら、わしはその通りに魂を返しただろうよ。
死んだ子らの気持ちを考えるまでもない。子供の命はわしのものではない、それくらいはわしだって知っておる。あの子らも生きたいと望んでいたであろうが、それでも神は連れ去っていった。
神があの子を欲したのだ。わしの命ではない。わしにどうこう出来る命などない。もちろん悲しかった。わしの心は潰されそうなくらいに辛かった。
それでも。何だこのほとばしる激しい痛みは。こんな痛みと苦しみが人間に耐えられる訳がない。なぜ神はこれだけの痛みを感じるようにわしらを作ったのだ。なぜそんな運命をわしを投げつけたのだ。
こんな仕打ちを神が望む理由は何だ。この苦痛が必要な理由はなんだ。なぜわしの体にこれだけの苦痛を与えるのか。なぜわしはこの痛みに耐えねばならぬのか?それが魂の救いとどう関係するのか。この痛みがどんな試練だというのか?この苦しみの先に何かあるのか?
もしかしたら神はわしがこれほどの苦難の中にある事を知らないのではないか。だからわしのこの苦しみを取り除けないのではないか?何も知らぬのか、それとも知っていて何もしないのか?
この苦しみを知ってもまだ救いに来られないのなら、わしにはその意図を正しく知る義務がある。それなくばわしには耐えられぬ。
もしそれが叶うならば、わしはまだこの先も耐えられるだろう。だがそこに納得できなければ、わしは何を頼りにすればいい?
別の神に向かうべきか?救ってくれる神こそが神ではないか?神を捨てる?そんな恐ろしい事を。
神の試みが永遠の苦しみだとしたらどうする?それが神の望みなら?そこにわしの救いはあるのか、永久にこの苦痛に耐えるなどわしにはできそうにない。例え神の御心であってもだ。
救うとは終わらせる事ではないのか。もし神が終えぬのならわしはわし自身の手で終わらせる。その手段が残されている。それが神の深淵なる思し召しか?試練は終わるから耐えられる。では耐えた後のわしに何が残るのか?
わしは神に従うしかない。その時点でわしの信仰はもう汚されている。わしはその脅しに屈したのだ。その為にこの苦しみはどうだ?
神とは苦しみに手を差し伸べる存在ではないのか。人間を救う為に存在するのではないのか。予言者たちは救いがあると言いながらむこうの部屋で飲み食いしておった。しかし、今のわしにとってこの神は役に立たない。
この世界に病や事故は耐えない。老いや苦しみもある。それらを司るのも神だろう。それらも祝福しているのが神だろう。ならば神が祝福するものがわしを苦しめておる。その作用が肌にぶつぶつを作り出している。
どんなものであれ、神が支配している世界にわしらは住んでおる。わしを苦しめるものも神の世界を成す。神は全てを統べるならそれを神は望んでいる。
この病が斯くも苦しみを与えるのは神がそれを祝福しているからだ。それを取り除いて欲しい時に、神はわしよりも病の基の方を祝福している。
神はわしよりもこの病の方を気に入っているに違いない。わしの信仰心よりもこの病の方を気に入っている。だから神に愛されぬわしには苦しみしかない。
人が常に善人とは限らない。だが悪人だからと罰されると言う話は聞いた事がない。それをわしは経験から知っている。神は悪を滅ぼす気がない。悪さえも祝福しておる。病でさえ神の祝福なのだ。
人の悪意は跡を絶たない。わしが苦しんでいる時にわしの富を奪おうとやってくる盗人がいる。その盗みも神の意図であろう、神はその盗人さえも愛する。ならばわしがその盗人を叩くのは神の意にそぐわぬのか。それともそれを殺す事が神のお望みか?
てんでばらばらに好き勝手に自由気儘で良いのか?それが神の希だと言うのか?ならば、なぜ神はわしらに何かを望むのか?見返りを与えるなどと言うのか?すべて存在するものを一辺に救えばいいではないか?なぜ小出しに祝福し罰するのか?
いや、そもそも神は祝福する存在なのか?祝福とは何なのか?富んだ者には金銀を分け与え、貧しい者には心の満足を与える?それで満足というのか?
わしの心とは何だ?苦しい、悲しい、その感情がわしの肉体に宿っておる。他の奴らが苦しんでいないのにわしだけが苦しんでおる、そう感じる事がわしの心だとしたら、わしはわしの苦しみを不公平だとわしは言う。
それを解消するには、わしが苦しみから解き放たれるか、神の御心と満足するしかないのか?それが神の意図なのか、そんなもの神に頼らなくとも、わし自身でやってやる。
わしの神とやらはどこにいる。わしのための神がどこに存在する。それぞれ人の数だけ神がおるに違いない。道端の石ころにさえ神は愛するであろう。そういう神に畏敬を感じるとしても、わしに神は必要ない。必要としようがすまいが神はいる。
助かろうが、助かるまいが、神はいる。わしからの働き掛けなど神は欲しない筈だ。それでもわしが神への信仰を示したいのだとしたら、それはわしが勝手にやる事だ。
わしの神が他の神との力比べに負けたとしても仕方ない。それが神がわしを苦しめる理由だ。わしを救えない神が何の役に立つだろう?弱い神をわしが信仰する理由?
力の弱い、わしを見捨てる神をなぜ信仰する?それに答えもしない神をなぜ望むか?なぜ全知なのにわしが信じ続ける事を知らないのか。なぜわしが反抗する事を知らないのか。この神はこの神ではない。
どれだけ悪態をついても、本当の神ならそれを既に知っている筈だ。全知であるなら知らないなどあり得ない。この世界の未来を統べるのが神であるのだからこの結果も知っていた筈だ。全知に未来と過去はない。
知っている事が起きたからと言ってなぜいちいち怒る必要があるのか。知らない事があろうはずがない。わしの何をお怒りになったのか、それを知る事は人間の外にある。神の気持ちはわしには分からぬ。
わしの信仰を試すため?試さねば分からぬ程度なのか、わしの信仰心は?試さねば分からぬ程度なのか、神の知る力は?わしも人である。痛みや怒りを感じるのは当然ではないか。心が揺らぐから人でいられるのだ。もし心を揺らがぬ事を神が望むのだとすればもう人ではあるまい。
わしに試練を与えると誰が言った?乗り越えられぬ試練などないと誰が言った?当たり前ではないか?わしが死んでしまえば試練も同時に消えてしまうのだ。生きている限りはわしはそれを乗り越えている。馬鹿馬鹿しい。
死ぬ事で消えてしまう試練と言うようなものを本当に人間に与えるだろうか?そんなもので人間は喜ぶだろうか。わしが怒りにまかせて神を罵った時にわしの心は揺らぎはしていなかった。ただ空に放たれた矢の様に突き刺さるべく真っ直ぐだった。
この世界の全ては神なく動く筈もない。悪魔でさえ神の祝福があるから存在しうるのだ。そうでないものが存在する筈がない。ならば全てを神は許可している。
わしの中には沸き起こるふたつのものがある。神への畏敬と、わし自身だ。だが全てを知っている神にわしが何かする事があろうか?ある筈がない。なぜ神は求めるのか?なぜ神は求めないのか?
ぎりぎりまで苦痛に耐えに耐え、そうして信仰心を示しておいて、やっと悪態をつく、そうすれば、まんまとわしの前に姿を現す。この賭けはわしの勝ちだ。
今まで誰も見た事も聞いた事もない神をやっとわしの前に引きずり出したのだ。この程度が神の訳がない。神の名を語るお前は誰だ?
それでもわしの中には神を敬う心がある。不思議だ。こんな境遇にあっても、わしの心から神は離れない。居ようが居まいが関係ない。本物であるかどうかもどうでもいい。偽物であろうと、本物であろうと、わしの中に神を想う心がある。それが消えない。
与えるのも神なら奪うのも神という、それは神の御業であって、勝手にやってろ、本当であろうと嘘であろうと、わしには何の関係もない。わしは神の奴隷ではないし、神もわしの奴隷ではない。
わしが長生きしたとしてもそれが神の祝福である筈がない。わしは苦しみも祝福も拒否する。それを神という理由にはしない。
本当の神がいるとして、それはこのような状況になってもわしを苦しみからは救おうとはしない神がいるとして、それでいい、それで十分である。いつかわしがその寝首を刈ってやる。そのための神でいい。
ひとりごと(ヨブ)
このクソったれが。信仰されているからって舐めた真似すんじゃねぇぞ。わしが生まれた時にはもういる神だから、何も考えずに信心を注いできた。短いながらも生きた経験に照らすなら人間には元来信心がある。それがどこに向かうかはわしの勝手ではない。生まれ落ちた場所や時代で決まる。わしの知らない神を信仰する人なら幾らでも会って来た。
偶々目の前に居た神だ。わしの信仰心がどこに向かうなど偶然だ。もっと東の地で生まれていたら、別の何かを信じていたであろう。
わしの信仰心もそうとうに見上げたものである筈だ。なんせわしは自分の子まで捧げた。やつの望みも受け入れた。もし生贄にせよと命じられたなら、わしはその通りに魂を返しただろうよ。
死んだ子らの気持ちを考えるまでもない。子供の命はわしのものではない、それくらいはわしだって知っておる。あの子らも生きたいと望んでいたであろうが、それでも神は連れ去っていった。
神があの子を欲したのだ。わしの命ではない。わしにどうこう出来る命などない。もちろん悲しかった。わしの心は潰されそうなくらいに辛かった。
それでも。何だこのほとばしる激しい痛みは。こんな痛みと苦しみが人間に耐えられる訳がない。なぜ神はこれだけの痛みを感じるようにわしらを作ったのだ。なぜそんな運命をわしを投げつけたのだ。
こんな仕打ちを神が望む理由は何だ。この苦痛が必要な理由はなんだ。なぜわしの体にこれだけの苦痛を与えるのか。なぜわしはこの痛みに耐えねばならぬのか?それが魂の救いとどう関係するのか。この痛みがどんな試練だというのか?この苦しみの先に何かあるのか?
もしかしたら神はわしがこれほどの苦難の中にある事を知らないのではないか。だからわしのこの苦しみを取り除けないのではないか?何も知らぬのか、それとも知っていて何もしないのか?
この苦しみを知ってもまだ救いに来られないのなら、わしにはその意図を正しく知る義務がある。それなくばわしには耐えられぬ。
もしそれが叶うならば、わしはまだこの先も耐えられるだろう。だがそこに納得できなければ、わしは何を頼りにすればいい?
別の神に向かうべきか?救ってくれる神こそが神ではないか?神を捨てる?そんな恐ろしい事を。
神の試みが永遠の苦しみだとしたらどうする?それが神の望みなら?そこにわしの救いはあるのか、永久にこの苦痛に耐えるなどわしにはできそうにない。例え神の御心であってもだ。
救うとは終わらせる事ではないのか。もし神が終えぬのならわしはわし自身の手で終わらせる。その手段が残されている。それが神の深淵なる思し召しか?試練は終わるから耐えられる。では耐えた後のわしに何が残るのか?
わしは神に従うしかない。その時点でわしの信仰はもう汚されている。わしはその脅しに屈したのだ。その為にこの苦しみはどうだ?
神とは苦しみに手を差し伸べる存在ではないのか。人間を救う為に存在するのではないのか。予言者たちは救いがあると言いながらむこうの部屋で飲み食いしておった。しかし、今のわしにとってこの神は役に立たない。
この世界に病や事故は耐えない。老いや苦しみもある。それらを司るのも神だろう。それらも祝福しているのが神だろう。ならば神が祝福するものがわしを苦しめておる。その作用が肌にぶつぶつを作り出している。
どんなものであれ、神が支配している世界にわしらは住んでおる。わしを苦しめるものも神の世界を成す。神は全てを統べるならそれを神は望んでいる。
この病が斯くも苦しみを与えるのは神がそれを祝福しているからだ。それを取り除いて欲しい時に、神はわしよりも病の基の方を祝福している。
神はわしよりもこの病の方を気に入っているに違いない。わしの信仰心よりもこの病の方を気に入っている。だから神に愛されぬわしには苦しみしかない。
人が常に善人とは限らない。だが悪人だからと罰されると言う話は聞いた事がない。それをわしは経験から知っている。神は悪を滅ぼす気がない。悪さえも祝福しておる。病でさえ神の祝福なのだ。
人の悪意は跡を絶たない。わしが苦しんでいる時にわしの富を奪おうとやってくる盗人がいる。その盗みも神の意図であろう、神はその盗人さえも愛する。ならばわしがその盗人を叩くのは神の意にそぐわぬのか。それともそれを殺す事が神のお望みか?
てんでばらばらに好き勝手に自由気儘で良いのか?それが神の希だと言うのか?ならば、なぜ神はわしらに何かを望むのか?見返りを与えるなどと言うのか?すべて存在するものを一辺に救えばいいではないか?なぜ小出しに祝福し罰するのか?
いや、そもそも神は祝福する存在なのか?祝福とは何なのか?富んだ者には金銀を分け与え、貧しい者には心の満足を与える?それで満足というのか?
わしの心とは何だ?苦しい、悲しい、その感情がわしの肉体に宿っておる。他の奴らが苦しんでいないのにわしだけが苦しんでおる、そう感じる事がわしの心だとしたら、わしはわしの苦しみを不公平だとわしは言う。
それを解消するには、わしが苦しみから解き放たれるか、神の御心と満足するしかないのか?それが神の意図なのか、そんなもの神に頼らなくとも、わし自身でやってやる。
わしの神とやらはどこにいる。わしのための神がどこに存在する。それぞれ人の数だけ神がおるに違いない。道端の石ころにさえ神は愛するであろう。そういう神に畏敬を感じるとしても、わしに神は必要ない。必要としようがすまいが神はいる。
助かろうが、助かるまいが、神はいる。わしからの働き掛けなど神は欲しない筈だ。それでもわしが神への信仰を示したいのだとしたら、それはわしが勝手にやる事だ。
わしの神が他の神との力比べに負けたとしても仕方ない。それが神がわしを苦しめる理由だ。わしを救えない神が何の役に立つだろう?弱い神をわしが信仰する理由?
力の弱い、わしを見捨てる神をなぜ信仰する?それに答えもしない神をなぜ望むか?なぜ全知なのにわしが信じ続ける事を知らないのか。なぜわしが反抗する事を知らないのか。この神はこの神ではない。
どれだけ悪態をついても、本当の神ならそれを既に知っている筈だ。全知であるなら知らないなどあり得ない。この世界の未来を統べるのが神であるのだからこの結果も知っていた筈だ。全知に未来と過去はない。
知っている事が起きたからと言ってなぜいちいち怒る必要があるのか。知らない事があろうはずがない。わしの何をお怒りになったのか、それを知る事は人間の外にある。神の気持ちはわしには分からぬ。
わしの信仰を試すため?試さねば分からぬ程度なのか、わしの信仰心は?試さねば分からぬ程度なのか、神の知る力は?わしも人である。痛みや怒りを感じるのは当然ではないか。心が揺らぐから人でいられるのだ。もし心を揺らがぬ事を神が望むのだとすればもう人ではあるまい。
わしに試練を与えると誰が言った?乗り越えられぬ試練などないと誰が言った?当たり前ではないか?わしが死んでしまえば試練も同時に消えてしまうのだ。生きている限りはわしはそれを乗り越えている。馬鹿馬鹿しい。
死ぬ事で消えてしまう試練と言うようなものを本当に人間に与えるだろうか?そんなもので人間は喜ぶだろうか。わしが怒りにまかせて神を罵った時にわしの心は揺らぎはしていなかった。ただ空に放たれた矢の様に突き刺さるべく真っ直ぐだった。
この世界の全ては神なく動く筈もない。悪魔でさえ神の祝福があるから存在しうるのだ。そうでないものが存在する筈がない。ならば全てを神は許可している。
わしの中には沸き起こるふたつのものがある。神への畏敬と、わし自身だ。だが全てを知っている神にわしが何かする事があろうか?ある筈がない。なぜ神は求めるのか?なぜ神は求めないのか?
ぎりぎりまで苦痛に耐えに耐え、そうして信仰心を示しておいて、やっと悪態をつく、そうすれば、まんまとわしの前に姿を現す。この賭けはわしの勝ちだ。
今まで誰も見た事も聞いた事もない神をやっとわしの前に引きずり出したのだ。この程度が神の訳がない。神の名を語るお前は誰だ?
それでもわしの中には神を敬う心がある。不思議だ。こんな境遇にあっても、わしの心から神は離れない。居ようが居まいが関係ない。本物であるかどうかもどうでもいい。偽物であろうと、本物であろうと、わしの中に神を想う心がある。それが消えない。
与えるのも神なら奪うのも神という、それは神の御業であって、勝手にやってろ、本当であろうと嘘であろうと、わしには何の関係もない。わしは神の奴隷ではないし、神もわしの奴隷ではない。
わしが長生きしたとしてもそれが神の祝福である筈がない。わしは苦しみも祝福も拒否する。それを神という理由にはしない。
本当の神がいるとして、それはこのような状況になってもわしを苦しみからは救おうとはしない神がいるとして、それでいい、それで十分である。いつかわしがその寝首を刈ってやる。そのための神でいい。
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