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2025年7月6日日曜日

ヨブ記2

悪魔が人間の信仰を試してみたいと問うた。神はこれを諾しヨブを選んだ。悪魔はさっそくヨブのところに行き、様々な苦難をヨブに与え始めた。

ひとりごと(ヨブ)

このクソったれが。信仰されているからって舐めた真似すんじゃねぇぞ。

わしが生まれた時にはもういる神だから、何も考えずに信心を注いできた。短いながらも生きた経験に照らすなら人間には元来信心がある。それがどこに向かうかはわしの勝手ではない。生まれ落ちた場所や時代で決まる。わしの知らない神を信仰する人なら幾らでも会って来た。

偶々目の前に居た神だ。わしの信仰心がどこに向かうなど偶然だ。もっと東の地で生まれていたら、別の何かを信じていたであろう。

わしの信仰心もそうとうに見上げたものである筈だ。なんせわしは自分の子まで捧げた。やつの望みも受け入れた。もし生贄にせよと命じられたなら、わしはその通りに魂を返しただろうよ。

死んだ子らの気持ちを考えるまでもない。子供の命はわしのものではない、それくらいはわしだって知っておる。あの子らも生きたいと望んでいたであろうが、それでも神は連れ去っていった。

神があの子を欲したのだ。わしの命ではない。わしにどうこう出来る命などない。もちろん悲しかった。わしの心は潰されそうなくらいに辛かった。

それでも。何だこのほとばしる激しい痛みは。こんな痛みと苦しみが人間に耐えられる訳がない。なぜ神はこれだけの痛みを感じるようにわしらを作ったのだ。なぜそんな運命をわしを投げつけたのだ。

こんな仕打ちを神が望む理由は何だ。この苦痛が必要な理由はなんだ。なぜわしの体にこれだけの苦痛を与えるのか。なぜわしはこの痛みに耐えねばならぬのか?それが魂の救いとどう関係するのか。この痛みがどんな試練だというのか?この苦しみの先に何かあるのか?

もしかしたら神はわしがこれほどの苦難の中にある事を知らないのではないか。だからわしのこの苦しみを取り除けないのではないか?何も知らぬのか、それとも知っていて何もしないのか?

この苦しみを知ってもまだ救いに来られないのなら、わしにはその意図を正しく知る義務がある。それなくばわしには耐えられぬ。

もしそれが叶うならば、わしはまだこの先も耐えられるだろう。だがそこに納得できなければ、わしは何を頼りにすればいい?

別の神に向かうべきか?救ってくれる神こそが神ではないか?神を捨てる?そんな恐ろしい事を。

神の試みが永遠の苦しみだとしたらどうする?それが神の望みなら?そこにわしの救いはあるのか、永久にこの苦痛に耐えるなどわしにはできそうにない。例え神の御心であってもだ。

救うとは終わらせる事ではないのか。もし神が終えぬのならわしはわし自身の手で終わらせる。その手段が残されている。それが神の深淵なる思し召しか?試練は終わるから耐えられる。では耐えた後のわしに何が残るのか?

わしは神に従うしかない。その時点でわしの信仰はもう汚されている。わしはその脅しに屈したのだ。その為にこの苦しみはどうだ?

神とは苦しみに手を差し伸べる存在ではないのか。人間を救う為に存在するのではないのか。予言者たちは救いがあると言いながらむこうの部屋で飲み食いしておった。しかし、今のわしにとってこの神は役に立たない。

この世界に病や事故は耐えない。老いや苦しみもある。それらを司るのも神だろう。それらも祝福しているのが神だろう。ならば神が祝福するものがわしを苦しめておる。その作用が肌にぶつぶつを作り出している。

どんなものであれ、神が支配している世界にわしらは住んでおる。わしを苦しめるものも神の世界を成す。神は全てを統べるならそれを神は望んでいる。

この病が斯くも苦しみを与えるのは神がそれを祝福しているからだ。それを取り除いて欲しい時に、神はわしよりも病の基の方を祝福している。

神はわしよりもこの病の方を気に入っているに違いない。わしの信仰心よりもこの病の方を気に入っている。だから神に愛されぬわしには苦しみしかない。

人が常に善人とは限らない。だが悪人だからと罰されると言う話は聞いた事がない。それをわしは経験から知っている。神は悪を滅ぼす気がない。悪さえも祝福しておる。病でさえ神の祝福なのだ。

人の悪意は跡を絶たない。わしが苦しんでいる時にわしの富を奪おうとやってくる盗人がいる。その盗みも神の意図であろう、神はその盗人さえも愛する。ならばわしがその盗人を叩くのは神の意にそぐわぬのか。それともそれを殺す事が神のお望みか?

てんでばらばらに好き勝手に自由気儘で良いのか?それが神の希だと言うのか?ならば、なぜ神はわしらに何かを望むのか?見返りを与えるなどと言うのか?すべて存在するものを一辺に救えばいいではないか?なぜ小出しに祝福し罰するのか?

いや、そもそも神は祝福する存在なのか?祝福とは何なのか?富んだ者には金銀を分け与え、貧しい者には心の満足を与える?それで満足というのか?

わしの心とは何だ?苦しい、悲しい、その感情がわしの肉体に宿っておる。他の奴らが苦しんでいないのにわしだけが苦しんでおる、そう感じる事がわしの心だとしたら、わしはわしの苦しみを不公平だとわしは言う。

それを解消するには、わしが苦しみから解き放たれるか、神の御心と満足するしかないのか?それが神の意図なのか、そんなもの神に頼らなくとも、わし自身でやってやる。

わしの神とやらはどこにいる。わしのための神がどこに存在する。それぞれ人の数だけ神がおるに違いない。道端の石ころにさえ神は愛するであろう。そういう神に畏敬を感じるとしても、わしに神は必要ない。必要としようがすまいが神はいる。

助かろうが、助かるまいが、神はいる。わしからの働き掛けなど神は欲しない筈だ。それでもわしが神への信仰を示したいのだとしたら、それはわしが勝手にやる事だ。

わしの神が他の神との力比べに負けたとしても仕方ない。それが神がわしを苦しめる理由だ。わしを救えない神が何の役に立つだろう?弱い神をわしが信仰する理由?

力の弱い、わしを見捨てる神をなぜ信仰する?それに答えもしない神をなぜ望むか?なぜ全知なのにわしが信じ続ける事を知らないのか。なぜわしが反抗する事を知らないのか。この神はこの神ではない。

どれだけ悪態をついても、本当の神ならそれを既に知っている筈だ。全知であるなら知らないなどあり得ない。この世界の未来を統べるのが神であるのだからこの結果も知っていた筈だ。全知に未来と過去はない。

知っている事が起きたからと言ってなぜいちいち怒る必要があるのか。知らない事があろうはずがない。わしの何をお怒りになったのか、それを知る事は人間の外にある。神の気持ちはわしには分からぬ。

わしの信仰を試すため?試さねば分からぬ程度なのか、わしの信仰心は?試さねば分からぬ程度なのか、神の知る力は?わしも人である。痛みや怒りを感じるのは当然ではないか。心が揺らぐから人でいられるのだ。もし心を揺らがぬ事を神が望むのだとすればもう人ではあるまい。

わしに試練を与えると誰が言った?乗り越えられぬ試練などないと誰が言った?当たり前ではないか?わしが死んでしまえば試練も同時に消えてしまうのだ。生きている限りはわしはそれを乗り越えている。馬鹿馬鹿しい。

死ぬ事で消えてしまう試練と言うようなものを本当に人間に与えるだろうか?そんなもので人間は喜ぶだろうか。わしが怒りにまかせて神を罵った時にわしの心は揺らぎはしていなかった。ただ空に放たれた矢の様に突き刺さるべく真っ直ぐだった。

この世界の全ては神なく動く筈もない。悪魔でさえ神の祝福があるから存在しうるのだ。そうでないものが存在する筈がない。ならば全てを神は許可している。

わしの中には沸き起こるふたつのものがある。神への畏敬と、わし自身だ。だが全てを知っている神にわしが何かする事があろうか?ある筈がない。なぜ神は求めるのか?なぜ神は求めないのか?

ぎりぎりまで苦痛に耐えに耐え、そうして信仰心を示しておいて、やっと悪態をつく、そうすれば、まんまとわしの前に姿を現す。この賭けはわしの勝ちだ。

今まで誰も見た事も聞いた事もない神をやっとわしの前に引きずり出したのだ。この程度が神の訳がない。神の名を語るお前は誰だ?

それでもわしの中には神を敬う心がある。不思議だ。こんな境遇にあっても、わしの心から神は離れない。居ようが居まいが関係ない。本物であるかどうかもどうでもいい。偽物であろうと、本物であろうと、わしの中に神を想う心がある。それが消えない。

与えるのも神なら奪うのも神という、それは神の御業であって、勝手にやってろ、本当であろうと嘘であろうと、わしには何の関係もない。わしは神の奴隷ではないし、神もわしの奴隷ではない。

わしが長生きしたとしてもそれが神の祝福である筈がない。わしは苦しみも祝福も拒否する。それを神という理由にはしない。

本当の神がいるとして、それはこのような状況になってもわしを苦しみからは救おうとはしない神がいるとして、それでいい、それで十分である。いつかわしがその寝首を刈ってやる。そのための神でいい。