これは小説家に対しては侮蔑かも知れない。しかしそう読めちゃうのは仕方がない。
どこかで見たような飄々とした登場人物に、しかし嫌いでないと言わせるためにどのような命を吹き込むか、作者の苦心であって、そこには、現実にいる人間だって十分にステレオタイプだ、では二つを何が別けるかと問えば、それは彼の問題ではない、我が好きになれるかどうかの問題である、詰まる所。
これ明察だろ。
ストーリー、都合のよい展開、そんなものは読む道すがら強引な想像力で埋めれば良い。囲碁、天文、和算、色々な間違いが指摘されている。そんなもの、間違いがあるという点に注目するよりも、この小説がどれだけ広い世界を取り込んでいるかに吃驚すれば十分だ。作者自身、間違いがないとは信じてはおるまい、歴史上の大失敗を題材とした物語ですぞ、測量旅の道中で何度も何度も繰り返される失敗への賛歌はおそらく作者へと向けられた言葉でもあったはずだ。
これ、算哲。お主は実に良い学び方をしておるぞ。この誤問がそう言っておるわ。
必至が囲碁の語彙と書かれている。ややそうなんだと調べるがどうやら将棋。詰めろ、必死。囲碁の言葉ならこう。死んでもやる。人の命ではない、石の生き死にの話し。仮にこの石が全て死ぬとしてもこの手を打つ、もう引き戻せないそういう覚悟の時に使う。
恐らくこの小説に何一つ間違いがないとしてもそれが小説の評価を上げるとは思わない。想像力の低い連中の不平が霧消するに過ぎない、関孝和が作中で非難した算術家と同じような。
そうではないのだ、ここはまずは驚こうじゃないか、という話なのだ。
この小説は間違いなく斯くあるべしの姿をしている。こうでなければならぬ、というようにさえ見える。物語の類型としては古く、幾つかのパターンの集合体に過ぎない。しかし史実を調べてみればそれが全て作者の脚色だと分かる。よくもまあ実在の人物をここまで都合よく並べ替えて嘘を積み重ねたものだと。
この天地明察の凄い所は、この話しはどこかで見たような気がする、という既視感だ。そうでありながらどこでも見た事はない、読んでいる端から最後など分かりはしない、しかし、読み終わった後に、僕はこの物語をよく知っている、という感覚に包まれる。このような感覚はよく漫画から受けるものであるのだが。
どうやって渋川春海と言う人に着色したのだろうか。彼は何度も創造したはずである、作者が16才で出会った渋川春海という人に何度も惹かれたはずである。それは作者の中で結晶となった。この物語は恋の結晶作用と見做してもいい。彼が塗った色は新しい、この時代をこんな色で塗った人がいただろうか。
何故こんなステレオタイプの話しが面白いのか、これは登場人物の魅力的なのか。渋川春海という人物をよくぞ発掘してくれた、関孝和をよくぞ登場させてくれた。額面に飾られた先人をよくぞ招いてくれた。停まっていた時間を動かした。江戸時代が斯くも魅力的であるとよくぞ教えてくれた。
雁なきて菊の花さく秋はあれど春のうみべにすみよしのはま 伊勢物語(68段)
この春海の名の由来となった歌、さて作者の創作か渋川春海の心内であったか。そんな疑問を抱きながらもこの歌がここに登場する事が嬉しい。ほらでも史実でもどうでもいい、かくある如くある。
暦を通してこの国の形を探し、江戸という時代を通して彼が見たものがある、それを頼りに膨らませたのが渋川春海であり、関孝和であった。彼らの姿は江戸に生きる人の写実ではない。
飄々と生きる渋川春海のキャラクターはよく見るパターンだ、静かでどこか抜けていて、しかしそれでいて芯は外していない、そういう描き出しで始まったキャラクターが次第に動き出す、この動き出す流れは少々強引でもあるし、その心理描写も拙い。だがそれでいけないはずもない、説得されたくて読んでいるのではない、既にその魅力に取り込まれているのだから。そうであると言うのなら、そうであったのだろうで済む話だ、心理的な説得がなければ納得できないと言うのは現代の宿痾かも知れぬ、これが今風の特徴かも知れぬ。
そうだ、絵にするならオノナツメでも悪くない。
これらはある一点を指し示しているようだ。小説でありながら漫画的であり、心理描写というよりもプロットである、場面が転換しながら話が流れてゆく。映像的であろうとする、視覚に訴える言葉なのかも知れない。
本書は、囲碁・天文・政治・和算と当時(今の時代でも)天才とされる人がこれでもか、とばかりにわんさか登場する小説である。面白いかと言えばおもしろい、話が上手かと言えばうまい、だが。この話はやはり手塚治虫の手になるべきだったという想いがある。表現が、そうあるように訴えてくる。何故か僕は手塚治虫の手になる幻の原稿を空想しては楽しんでいたのである。
まるで底のない沼地のように相手を吞み込んでしまった。
人が正しき術理をもって、天を知り、天意を知り、もって転化の御正道となす・・・武家の手で、それが叶えられぬものか。
この国をどう考えるか、その数行を作中に入れた事は、作者としての思いなす所であったのだろう。江戸時代をどう見るか、日本という国をどう見るか、そこで語りたくなった気持ちがある。小説は映像と言葉の変調を繰り返す。
もう一つある。
この物語で、恐らく作者の創作である短歌である。
類ひなき きみのめぐみの かしこさを
なににたとへん 春の海辺
これらは映像と言葉のハイブリッドと言ってはどうか。
だから、この小説にはないものがある、臭いだ。土壁にも夜の風にも、海にも紙も墨も、いや女の香さえも立ちこめてこない。これが多分この小説の肝であろうと思われるし、手塚治虫もオノナツメもこの点が似ている。無機的とか中性的という表現でもいい。
では臭いがあるとかないとか、それはどういうものであろうか。恐らく、僕は匂い立つような文章が書きたいと思っているのだ、だからそこが気になったのだろう、と思う。どうやら僕も文章で春の海辺を行く者でありたいと思っているらしい。例え明察ばかりが春の海辺ではないとしても。
ともあれ、この物語においては関孝和が必殺技だった。これが物語を成功させた。それだけは読めば誰でも解る。
これにて明察。