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2024年7月20日土曜日

明治言論批判 - 学問のすすめ

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。

そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。

ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。

諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。

されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。


アメリカ独立宣言によれば、人は平等に作られたさふである。されば、人は全て同じ地位になり、生まれながらに貴賤の違いなく、万物の霊長たる人間は、この世界の全てのものを自由気儘に手にし、衣食住にも困らず、好きな所に住め、誰かと争いも起こさず、全員が幸せに生きて行けるという事になる。

されども、世事を見れば、賢愚あり、貧富あり、貴賤ありと、とてもそうとは思えない。『実語教』には「学ばなければ頭が悪くなる、頭の悪い者を馬鹿と呼ぶ」と書いてある。されば、賢愚とは勉強によって決まることになる。また世の中には難しい仕事も簡単な仕事もある。

その難しい仕事をする人を身分の重き人と呼び、簡単な仕事をする人を身分の軽い人と呼ぶ。頭を使って色々と心配りが要る仕事は難しく、手足を使う肉体労働は簡単な仕事とする。ゆえに医者、学者、官僚、一流企業、大百姓などを、身分が重く、貴い人と呼ぶべきだ。

身分が重く貴い人ならば稼ぎも良く、下々の者たちからすればとても敵わないと思うだろうが、その人がそういう風になれたのは、ひとえに勉強をしてきたかどうかに依る。

身分の重い低い、貴い卑しいは天が決めたものではない。諺に曰く「天は富貴を人に与えるのではない、その人の働きに応じて与えるのである。」と。

The Declaration of Independence

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

私たちが獲得した次の真実は証明する必要さえない。全ての人は平等に生み出され、創造主によって奪いようのない権利が授けられたはずである。それは全ての人が、命と、自由と、幸福を追求する権利である。

人の能力が学問によって開花する道筋がある。人間も情報処理装置の一種だから、知識なく機能はしない。だが、我々の社会は、学問という扉が万人に開いている訳ではない。住む地域も国家も異なる、時代が異なれば尚更である。

ある人は奴隷として売り買いされそれでも必至に学ぶ生き方をしただろう。時に学ぶ事を諦めた人もいる、時に学ぶに恵まれた人もいる。学びが止まる事はない。人間は貪欲に情報を読み込む装置でもある。

ガウスのような天才でさえ学ぶ機会がなければあの偉業は達成できなかったであろう。カントの思索も学ぶ機会があればこそだ。人には世襲がある。親の資産を引き継ぐ。この違いが学びの平等を阻害してきた歴史もある。何も個人の適不適ばかりではない。

だから学問につとめられるなら既にそこは始まりの場所ではない。始まって相当経った時の、選抜された後の物語になる。そこで自由や平等を持ち出しても詭弁だ。その意味でこれは相当に巧妙に隠された特定の層を狙ったフィクションと考えるべきだ。

確かに明治という時代は最貧からでも学校に行き学ぶ事を可能とした。その点では江戸時代よりも遥かにダイナミックである。そのような時代を生きるにあって、人々に学ぶ価値を周知する事は格好の宣伝だったのである。

身分

江戸幕府の終焉が大きな価値転換を人々に要請した時に、指針を表明したひとつが「学問のすすめ」になる。

旧身分は廃止され、国家の概念が変わった。学問の体系も刷新され、西洋から輸入する時代に、遠く明日香を思った人もいたであろう。隋から様々なものを導入したのと同様の大変革に直面して、これから国が変わってゆく。

では聞こう、どこまでが同じで、どこから異なるのか。我々はどの方向に向かって歩むべきか。

かつて聖徳太子らが、律令制度と仏教を取り込もうと努めた。では明治は何に努めるか。西洋の技術である。その裏付けとなる科学である。それを発展させた背後にある統治システムおよびその思想である、乃ち法治主義、民主主義、立憲君主制である。

新しい時代を人はどのように考えればよいか、その為に立ち止まる。その結果として導かれたものは江戸幕府と明治政府とで異なる明瞭な点がある。即ち仕事が世襲でなくなる。特に官僚組織としての武士は廃止された。

これまでの身分は役に立たなくなった。侍を廃業した後に何をもって四民の独立独歩を実現するか。これまでのように精神修養をしていれば扶持をもらえて食べていける時代ではなくなった。

武士も農民も商人も職人も同じ。全ての人に風が吹いている。これまでとは違う風が。

どのような指針なら食って行けるだろうか。生活をどう変えて行けば暮らしが成り立つだろうか。雇用の提供は政府の最大の業務である。

本当に大切なものが変わる筈がない。しかし、所作は変える必要があろう。これまでと同じ生活はない。特に都市部では。我々は単に主君を変えたのではない。

官僚

武士の世が終わった、これからは新しい官が求められる。政府は何を求めているか。

武士とは徳川時代の官僚である。家を中心に子弟を教育した。だから家の存続がとても大切な価値観になる。教育の根本に朱子学があり、それによって統治の思想を磨き抜いた。その官僚が全員解雇されたのが明治維新という事件になる。

それがなぜ一般の民衆にまで影響するのか。それは誰もに官僚となる道を開いたから。政府は広く人材を募集した。

これまでのように出自ではもう選ばない。維新を生き抜いた人達の慧眼に叶う者たちが必要で、そのために官営の学校を設立した。

新しい産業が新しい労働を必要とした。それまでの第一次産業を基盤とした経済体制が、第二次産業の経済へと切り替わってゆく。

それが西洋化の正体。工業国となる事、その為の人材を国中から搔き集める。工業は科学の裏付けなく成立しない。

農村と都市。緩やかに、しかし確実に社会に自由が浸透してゆく。貧しい日本ではまだ職業選択の自由が叶う状況はない。否応なく過酷な仕事に従事した人も居る。

恐らく多くの人は農家を継ぐ。工業の力はまだ弱く、多くの労働者を維持する体制にはない。まだ農業が国家の基本である。食の安定なく何の富国であるか。

それでも、新しい時代と古い時代は交差しつつ、少しずつ置き換わってゆく。

平等

人は平等である。それなのに貧富の差が生まれるのは実学の上手下手があるからだ。学問で差が出るとは、つまりは実学で差が出るという意味だ。

なぜ実学だけで差が生まれると言えるのか、出来る訳がない。人間は実学だけが属性でもない。出自も地域も生まれも育ちも大いに異なる。

だが、平等という考え方があるから上下を付ける事ができた。その上下を付ける為に学問が使えた。目指すのは平等ではないのである。平等から初めて平等で無くしてゆく道筋を説く。それは理想ではない。選抜はが起きる避けえないと語る。

その時点で既に平等とは彼にとっての絵空事なのである。マルクスが目指した夢の世界、理想の追求など思いもよらなかったであろう。

明治は一斉に全員が同じ所からスタートした時代である。そこで何を提供するか、考えた末が学問のすすめではないのである。

生活が変わるとは社会の経済構造が変わるという事だ。変わるのは世襲を変えたからだ。それに応じて体制も組みなおさなければならない。

人はこれからは実学によって稼ぐ。その時に使えるものが学問である、そう断じる。なぜなら私は大学を経営しているから。

木戸孝允は「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ学不学にあるのみ」と語ったとアマルティア・センが語った、と書かれている。

明治の学とは科学の事である。科学とは要は大砲を遠くの飛ばす仕組みと裏付けの事であり、これが実学である。この実学の追求が最後に結実したものが戦艦大和であり、その沈没が明治の実学の結論となった。

日本は工学でアメリカに負けた。しかし、負けたのは工学だけではない。その背景にはとても大きな問題が横たわっている。それを明治の元勲たちに求めるのは明らかに過剰であろう。

その後継者たちに求めるのも行き過ぎと思える。これらは今の時代の宿題と受け止めるべきだし、それが叶わないなら次世代に渡してゆくしかないと考える。

求めるべきは別にこの国の未来でも繁栄でもない。西郷隆盛でさえ"その為"ならこの国を焼き尽くして構わないと語った、その何かである。

輸入

現在の経済学者は労働による所得では、資産投資による利益は超えられないと指摘する。遺産を継ぐ事で生じる富の蓄積は何らかの圧力がない限り、増大する一方と言う。社会改革、経済構造、自然環境の変異以外では変わらないと。

それが江戸幕府を支えた家制度が長く続いた理由だろう。王、貴族など資産の蓄積が中世までの社会を形づくった。それが変わった理由は、市場の形成が関係すると考える。

貴族が中心となって動かす市場よりも多数の市民が参加する市場の方が巨大である。貴族という農業中心の経済よりも都市という工業中心の経済の方が強力である。

福沢は、この変革期にいち早く新しい指針を打ち出した人である。江戸幕府と明治政府を分けるもの、社会の原理が変わった、その背景を江戸幕府とアメリカ民主制の比較から始めた。

彼は最も早く海外の思想を輸入した一人である。先んじて学ぶ事が何時でのこの国ではオリジナリティとなる。輸入し咀嚼し吐き出す、これが聖徳太子以来のこの国の最先端の方法である。

仏教も儒教もそうして国内に行き渡り長い時間をかけて独自性を発揮してきた。それは長い時間を掛けて穿ち、磨き、耐えて、残ったものである。それらがこの国のらしさを形成した。残ったものもあれば廃れたものもある。法体系としての律令は残らなかった。

明治政府は、元勲を生み貴族制を導入した。そこに市民との間に差が生まれる。決して万人平等を目指した国家ではない。ひとえに軍が人数を必要とした。家制度のままでは必要な兵士が用意できない。明治とは戦争のやり方が変わったという意味である。

価値

新しい価値が生まれた、家の格式ではない。人は能力によって採用される。もう出自で採用される事はない。

福沢諭吉は勉学を掲げる。学ぶ事は平等である、そう訴える。よって学び方で成果に不平等が生まれるのは当然だ。同じ料理を習っても作ってみれば美味不味いがある。

この平等という価値を、平民という価値と重ね、不平等を甘受する為の方便として使う。平等な所から出発したのだから結果としての不平等は受け入れなさい、その原因はただ学問が足りなかったからだ。だから熱心に学ぶべきなのだと。

勿論、これは人々を欺くための言葉でありここに論理性はない。結果としての不平等が本当に能力だけで決まっているのか。学ぶ事は本当に誰にとっても平等であったか。そんな訳はない。

結果は総力戦であるからあらゆるものが投入されている。当人の能力は部分に過ぎない、詐欺師は巧みに真実を語る、全体と部分を手品のように置き換えてみせる。

主従が逆なのである。これまで身分や出自で階級が決まっていた。当人の能力や努力によって引き立てられる事例も各地であったにせよ、大部分が出自で決まっていた。生まれた時に人生がほぼ決まる事は不幸であるか?恐らく大部分の人にとってはそうでもなかったろう。

学ぶべきものを親から子に伝える、それで十分に生きて行ける世界があった。そのような世界でも、古い人は今の若い者はと嘆き、新しい人は今はもうそういう時代ではないのですよと諭した。

現在から見れば理不尽な面はある。しかしその時代の資源に見合った形で最適化していたとも言えるものである。理不尽さは形を変えて現在でも消えた訳ではない。

明治の生活

明治は、身分や出自ではなく、学力で階級を決める。階級の決め方が変わったのだから、それに即した生き方がある。

これは、住居の自由、職業の自由が与えられた事に対する答えであろう。明治という世の自由は、新しく人々に選択を強制した。今まで通りに生まれた場所でその家で生きてゆく事は次第に難しくなるだろう。

それでも出自の差は依存と残っている。確かに明治の世から貧しい家からでも軍学校に進む選択肢が増えた。しかし伯爵家に生まれた者にもその選択肢はある。彼らに決断は必要ない。より多くの選ぶ道があるから。選択肢は確かに増えた。しかし勉学する自由は昔も今もある。そう簡単に過去が変わってたまるか。

依然として学問ではない。出自により公平な学問の機会が異なる。ならば国家として可能なのは最低限の学問の機会の確保となる。最低限でもそれがある事と完全に道が閉ざされている事は違うから。

これは当時の状況でのほんの少しの希望であったろう。それだけでも大きく変えたという自負があると感じられるのである。もし今も状況が同じならそれは明治より後退しているのである。

福沢諭吉は語る。我が大学に入りなさい、学問があなたの未来を変えるから。

学問

明治が輸入した最大のものは資本主義であろう。富の追求が明治維新の神髄と福沢諭吉は喝破した。

所が貧しい者たちには学問しか逆転のオプションがない。これが学問のすすめの説く所だ。だから持つ者たちが手にしているオプションは隠されている。この本は持たざる者たちへの啓蒙である。

書いてあるのは決して学問のすすめではない。実学のすすめである。学問と呼ぶよりも技術である。だからなぜ学問をすれば上手くこなせるようになるかのメカニズムは書かれていない。学問が必要だと説く。もし学問が世の中を生きるのに役に立つものならなぜ儒学者たちは台頭しなかったのか。

学問に第一等の価値を見出した。しかし学問がどう役立つかの説明はない。西洋の知識を取り込む事を学問と呼ぶ。孔子の思想を学ぶ事は今後は学問とは呼ばない。そう決めた。これからは西洋の知識が重宝されると言っただけである。

明治を生きる為に実学を中心に据える。明治の人々は西洋の学問の本質を実学と見た。それを多くの人に伝えるのにどうするか。これまでの学問とは違うのだから伝える為に何から書くのが良いか。

平等である。平民という立場である。この平民が国の礎となる。この人たちが何を学ぶかで国の行く末が変わる。彼が見つけたのはこの膨大な市場であった。国家という概念はこれを統一的に結び付けるのにそして裏付けとするのにとても便利な概念であった。

古来の学問とは異なる学問体系がある。近代国家はこの学問に根差して運用されてゆく。福沢は誰よりも早くこの本音を語ろうとした。

彼は真っ先に扉を開けた一人である。扉を開けた者は開けた瞬間には最先端に立つ。しかし扉を踏み越えた瞬間から時代遅れになる。最初に開けた者にも、間違いも思い込みも沢山ある。それは批判の対象ではない。

その誤解こそがこの扉を開けるのに必要不可欠だったのかも知れないのだ。それがなければ今も開いていない扉かも知れないのだ。

縁故

とはいえ、今から振り返れば、明治の思想の中に、あの戦争へと至る真っ直ぐな道が敷き詰められている。あの戦争から過去を振りかえる時、維新までの道がはっきりとある。

ならば他の道はありえなかったのか。明治の時にそうなる事は避けえなかったのか。いや、そうではあるまい。維新の扉を開ければ、古い時代へと揺ぎ無い道がやはり続いているであろう。

この国の実学は、凡そこの国古来からのやり方であって、我々は思想や理念よりも先に組織に立ち戻る。そこを阿吽の呼吸で理解しあえる関係が築く。そこには組織論さえ必要としない。

福沢諭吉には尊王にも攘夷にも惑う事なく、真っ直ぐに西洋語へと進んだ道がある。長崎で西洋技術に触れた為であろうか、中津に生まれた偶然が大きく効いたのであろうか。三浦梅園らを生んだ豊後に生まれた事も何かではあるだろう。

勿論、この時期の日本では同じような動きが全国各地で勃興していた。どの場所でも多くの人材が育った。人々は既に新しい時代に進む準備が出来ていた。蛹が今にも割れようとしていた。

福沢諭吉は彼なりの方法で古い階級を追い出した。その結果として新しい階級を組み立てた。決して自由平等というものを夢想した人ではない。階級を当然とした人である。

階級の入れ替えが勉学によって可能になった。勿論、江戸時代にも二宮尊徳の例がある。これは明治以降も良いサンプルとなった。しかし実際は縁故が物を言う。

人間は元来平等と言われるが、実際はそうではない。まず家族が最優先である。共同体がありコミュニティがある。階級の上に立ちたければ、学問を使え。その為には慶應義塾に来なさい。ここで実学を学べば、私が取り上げるから。この学閥は今も生きている。

明治以後

岩村精一郎の頑迷、日清戦争への暴走、日比谷焼打事件の蒙昧、明治の早い時期に昭和の敗北へと繋がる道がある。その問題が訂正される事はなく、摘み取られる事もなく、ひたむきに大輪を咲かすかのように次の戦争へ次の戦争へと向かっていった。そして散った。

明治の国民は決して豊かではなかった。三笠を買う為に多くの人が重税に苦しみ貧困の中を生きた。それでも人々は建国への参加に誇りをもち、請われれば兵士となり、海を渡った。

足尾銅山で苦しんだ人々も、また近代化の礎であろう。富岡製糸場で苦しんだ労働者も国益のため犠牲を捧げた。そうした中で西洋化に向けて独立という目標を立てて日露戦争が完成する。それまで苦しんできた民衆の苦しみは無駄ではなかったのである。

しかし、その後もこの国の貧困と格差は改善されなかった。貧しさは見過ごされた。既得権益は強固に貴族の独占となり世襲が日本を覆いつくした。その結果が515,226へと真っ直ぐに向かう。犬養毅に銃を向ける時、随分と綺麗な服を着ておりますなぁとしか思わなかった筈である。昭和大恐慌はその切っ掛けに過ぎない。どこにも分水嶺はない。

明治から515,226までが一直線であり、クーデターからたった10年で日本は世界を相手に戦争を始めるのである。明治の成功の中で既に滅亡への計画書にもサインしていた。我々にはそれを回避する知恵も知識もなかった。現在もこの道を変えるものは見つかっていない。

誰がもういちどやり直した所で、大きく違う結果は得られないであろう。

松陰

松陰が述べた攘夷という思想がなければ明治維新は成立しなかった。この国で誰も新しい王を目指さなかったのは攘夷という国学で培った純化があったからだと思う。その理念の上に開国という花が咲く。

狂により多くの若者を育てた松陰である。だが彼は決して自分の考えを他人に強制する人ではなかったと思う。恐らくお願いさえしていない。常に自主独立の道を、いつも彼は彼の道を歩いた。

だが長州藩の志士の多くは目先の金の工面に駆けずり回っていたのである。そうしなければ何も先に進まない。弾丸のひとつさえ買わなければ得られない。西南戦争で薩軍は銃弾を自分たちで作らねばならなかったる。近代以降、工業の裏付けのない軍が勝てる道理がない。

経世済民

国力とは経済である。経済を制するには実学を採用する。だが個々の技術では足りない。福沢もまたエンジニアリングの人であろう。彼は社会を工学しようとしと試みた。

実学という技術に走る事は、最後は戦争を意味する。1980年代に、日本が世界一の経済を手にした時、何ひとつ、未来の姿を思いつかなかった。世界を支配するという狂った野心さえ持たなかったのである。それが実学の結論である。理念なき実学は空虚ではないか。

現在はこの国は実学さえ失いつつある。何かの底が抜けてしまって。それでも我々は今も実学を頼りに進もうとしている。

百年先の利益よりも目先の最大利潤を目指す。これが人類が辿り着いた結論であり、実学の極致でもある。これを否定する方法論はこの世界になく大量生産・大量消費に打ち勝つ経済システムは未だ開発できていない。

自然の流れに逆らって経済が動く事はない。では大量消費を支えるものは何か、恐らく広告である。不特定多数を相手に広告を展開する限り、経済は大量生産、大量消費に向かう。これを変えるにはAIによる個別の広告展開しかないだろう。

資源が無限である限り、大量消費する経済モデルは完全に正しい。実学もこの仮定の上では正しい。そして多くの生物が繰り返してきたように、永久を前提とするシステムは資源の枯渇により絶滅に辿り着くのである。

今も転換期である。世界は安定して不変のまま不安定に変化する。これを実学だけで乗り切るには不足している、何故なら実学とは反応系の所作だからだ。

もし我々が明治の実学に郷愁を持ち、その時代に戻りたいと願うのなら、それは我々が未来の理想を持たないからだ。

2024年7月1日月曜日

頭蓋骨の進化論

魚類の骨格は、背骨から頭蓋骨へと繋がり、その延長線上の両側に目がある。カエル、トカゲも同様であって、背骨と目を繋ぐ線は地面と並行しており、背骨と並行する様に口もある。よって下あごと背骨は同じ方向にあり地面と平行している。

鳥の場合は、首が地面から垂直であるが、頭蓋骨と繋がる直前で地面と並行するように大きく湾曲している。この点で言えば、そのまま伸ばせばトカゲと同様の構造になる。

象の背骨も地面には水平で、その先にある頭蓋骨は上下に伸びて目の位置は、背骨より下であるが、平行の概念からはそう離れていない。

前に長くできず下方向に伸ばして目、鼻、口を収容したのは、顔の重さに起因するだろう。

それでもあれほどの重さを首の端にちょんと乗せて水平方向で首が支えている。その強靭さはどうやって可能としているのか。人間が肩こりするなど象の前では恥ずかしくて言えないと思う。

鯨は水中に入る事で脳の巨大化を可能とした。頭蓋骨は流線形を形成し、目は顔の横に配置した。

犬や猫などは水平よりは斜めに首が付いており頭蓋骨と繋がっている。馬、キリンなど首の長い哺乳類は、ほぼ90度の角度で接続しているが、それらは頭蓋骨の端にあって、その繋がり方の曲線上に延長線を引くと、その先に目があり口があるという感じで、構造はトカゲなどほぼ同等と見做せそうである。

首が長いのは遠景を見る為であり、首が上に延びる以上は、頭を曲げないといけない。首が延長した方向のままだと空しか見えないからである。だからこれらの動物の頭蓋骨は曲げておく必要がある。トカゲで言えば、崖の下を見る時に首を下に曲げた姿勢をしている。

猿の仲間も、首に対して頭蓋骨は90度に近い接続をしている。これは首が上に伸びたからではなく、背骨が骨盤から先で垂直に近くなった事に起因する。

樹上生活に適用し、座る生活が多用された結果、背骨が鉛直方向の姿勢になった。背骨が地面に垂直なのは、樹木にへばりつく生活に変わったからだろう。地面ではなく樹木に対して背骨が水平であろうとした。樹上生活が普通になると、木が地面に垂直だから、猿の姿勢も垂直になった。

チンパンジーやゴリラなどは、歩く時も背骨が斜めの状態を維持する。その為に手を長くした。その点で四足歩行の猿とは違うと思われる。

人間の場合、二足歩行が進み背骨がまっすぐ立つのに合わせて頭蓋骨を背骨に上に乗せるように取り付けたと考えられる。そうしないと頭のバランスが悪くなる。頭の位置エネルギーを上手に使って動くが、制御できるバランスの悪さでないと二足歩行が上手く安定して機能しない。それでは狩りをするにも逃げるにも不利だろう。

人間が背骨を地面に並行にした場合、例えばハイハイ、素直な姿勢を取れば、顔は下を向く。顔を前に向けるには首を上げなければならない。この姿勢は極めて不自然である。

下を向いた姿勢が他の動物と同様のデフォルトだとすると、何故その姿勢では前が見える様になっていないのか。その姿勢のままでも前が見えるようになっているべきであろう。

その為には、頭頂部あたりに眼窩があり、今の顔がある辺りには下顎があって咀嚼部が形成されている筈である。草食動物なら両耳の辺りに目があって、耳はその後ろにあるべきである。

つまり、人間は自然の姿勢に対して、目が下がった位置にある。犬の骨格で言えば、顎の所に目がある。首の付け根に下に向けて口がある。

この不自然な目と口の位置は、どうして生まれたのか。脳が大きくなる過程で、目がそこに追いやられたからだと考える。

脳が巨大化する時に目を追いやる方向は様々の筈である。進化は特に位置を指定しない筈だから。

例えば犬の頭蓋骨をモデルに頭を大きくすると考えてみる。すると眼窩は今よりも前に出るだろう。目は前に出るけれど、鼻腔の空間は維持したいから、更に口も前に出るか、下に逃がすしかない。そで口が随分と違った所に移動する。

犬の強力な顎も消したくないなら、顎の筋肉は頭蓋骨周りに張り付くのだけれど、顔の形状は球形に近くなりそうな気がする。例えばブルドックのような。そこから鼻と顎を前に伸ばす感じ、であろうか。

人の場合も、そのような形成は可能だった筈である。脳が大きくなっても、目をそのまま前に追いやる事も可能だった筈だ。その結果として、今の人間の頭頂部に目がある形でも不思議はなかった。

しかし、二足歩行で頭頂部に目があるのは空しか見えないので少々困りそうである。空にしか天敵がいない星なら在り得える。

頭頂の目で頑張ってカメレオンのように前後左右を見れるようにしたとしても神経の通し方は難しそうだし、直ぐ傷ついて失明しそうだし、目の下にある脳をどう頑丈に守るのか、とても工夫が必要そうである。

そこで、成長する脳は、目を顔の下に追いやる事にした。長くはしない、位置を動かす。目に押されて鼻も口も下に移動させる。顔を長方体と見做せば、前にあった目を下の辺の方に移動する。

それまで口があった面に目や鼻を配置する。その分、口は下に追いやられる。それまで横にあったものが縦になったので、口は短くなる。



それでも脳を大きくしたいという進化圧が勝利したら、最終的には、人間は下しか見れない頭蓋骨を持つ。これは不便だ。



つまり、二足歩行になったから、背骨に対して垂直に頭蓋骨を乗せたのではなく、脳が発達したから、前を見る為には首を上げるしかなかった、その為には二足歩行にするしかなかったと考える事ができる。

原因と結果は逆転できると思える。