急に学年主任が登場するなどありえない。現実であればこれで解決するはずがない。生徒の一人がいじめを理由に引っ越すのにそれを知っていないなど嘘だ。それを担任に任せきりにしていたなどありえない。先生が倒れる寸前まで誰も気付かないのもありえない。それほど有り得ないだらけにしなければ物語が成立しなかった。だが驚くべき事に同様の事がしばしば現実の世界で起きている。
誰もが知らない振りをしていなければ起きないような事が、誰もが結果さえ知っていれば見過ごさなかったような事が、いつの間にか崩壊が始まりいつの間にか考えもしなかった結果を生む。もしそうなると知っていたならば誰が見過ごすものか。福島第一原子力発電所で起きた事もいじめによる自殺も同じ構造だろう。なぜ見逃してしまったか。それは想像力の欠如ではない。学年主任も途中までは知らない振りをしていたに違いない。それが急転回し解決に至るものだろうか。物語はときおり馬鹿を配置しなければ成立しないプロットがある。途中まで阿呆でいなければ物語そのものが崩壊する事がある。気付かなかければ誰にも起きる話しである。
これはとてもリアルに描けない物語であって前提として幾つかの矛盾を必要とする。そんなことは作者だって十分に承知している。この程度で解決するくらいならとっくに現実から駆逐されているに決っている。そんな簡単な話しならここまで問題になるはずもない。物語にする意味もない。そんなことは百も承知の上で物語を予定調和な解決に持ってゆくのだ。先に進めるために。
そう物語は現実と違って先に進めるのだ。
この漫画がいじめに取り組んだ事は、物語からの要請なのか何かの反映なのかは知らない。しかし今の時代にこのようなエピソードを持つ事は物語をずっと面白くする。深く踏み込んだ所からどう解決するのか、読者も作者も思いながら考えながら読んだ。風呂敷を広げ過ぎて畳めなかったとしてもそれは失敗でさえない。HUNTER×HUNTER のキメラアント編もそうだ。人間が他の生物の餌とならざる得ない時に、人はどういう存在になるのか人権や平等と主張してきた人類の価値観はどうなるのか、と言うテーマはどんな哲学よりも深い問い掛けだったと思う。
いじめとは何であろうか。いじめの結果で生じる事は犯罪である。しかしいじめは犯罪ではない。それを裁く法がないからではなく誰もいじめが何であるかを知らないからだ。
いじめとは空気を読む行為に思われる。空気を読みその流れに従う。それはその場が生み出す何かであって、誰かがそれに従い、誰かがそのターゲットになる。いじめる者は空気に最も敏感に反応している者ではないか。
いじめには空気はあるが構造がない。空気を読み取った者に続く者たちはその空気さえ気付いていないかも知れない。彼等は理由も意味も知らない。力関係の中で自分の役割を見つけ出し群れの中の力関係を増幅させてゆく。空気に従って。
だれにもいじめる理由などない。聞いて分かる訳がない。彼ら彼女らの鋭敏な空気を読む能力が言語化もされずにエスカレーションしているだけなのだ。それがどこまで進むかは誰にも分からない。やっている事は夢遊病者や悪魔に乗り移られた人と何も変わらない。空気の命ずる事を深読みしながら実体化してゆく。
いじめも行きすぎれば犯罪である。その時は誰かを見せしめとして罰する。だがそれは何の解決にもならない。何が起きたのか誰にも分からないままだ、当事者を含め。空気は罰せられた者の横を通り過ぎ新しいターゲットのもとに訪れる。次の者が空気を読み次の行動を始める。
およそ人間に空気を読み取る能力がある誰と彼を区別する限りいじめは無くならない。それを黙認する空気が場にある限り。どのようないじめも学校を卒業するなど場が消えれば消える。いじめた者はそこで忘却する。無意識のうちに洗脳されていたようなものだ。意識さえないのかも知れない。いじめられた者でさえ理由は分からない。ただ暴力や悲しみの残骸が残っているだけだ。
そうなった正体が誰にも分からない。いじめは自分の意識で取った行動ではない。空気に後ろを押されたようなものだ。もちろんそれで無罪を主張されては困る。押されて崖下に落ちるのはいじめられた者だけではあるまい。
最初に誰かが空気を読んだ。そうして行動するのが正しいと信じた。そういう価値観が場にあった。最初に空気に従った者がそう理解し、周りのものもそれが認めた。それがきっかけである。それが許される世界である以上、それは正しい行いである。
そういう空気を作り出した者が何処かにいる。その行いを許容する者が何処かにいる。いつの間にか群れの中にそういう空気を作り出した人がいる。それは群れの中の力関係が生み出したのかも知れない。真の敵は、人の好さそうな校長先生かも知れない。見て見ぬふりをした担任かも知れない。その担任を職員室で難詰している教頭かも知れない。それを笑ってみていた学年主任かも知れない。誰かの親かも知れないし、教育委員の誰かかも、県の職員や知事かも知れない。誰もそれを証明できないし証拠もない。本人にさえ自分が空気を作り出した元凶という自覚はないだろう。
必ずいじめる者にはそれを許可した上位者が存在する。
いじめであれ差別であれそこに合理的な説明など何もない。空気を読み黙して従う。従わなければ次は自分の番かも知れない。黙って静かに棍棒を手にし振り落す。黙って棍棒を捨て何も言わずに立ち去る。次の人も次の人も黙って棍棒を拾い、振り下ろし、過ぎ去る。
(差別もある明るい社会 - 呉智英)
もし差別が絶対の悪であるならば、と考えるのは無意味だ。そうであればあらゆる差別はこの世から駆逐されなければならぬ。それはこの世にいるあらゆる虫を滅ぼすのと同じ徒労だ。
差別は絶対の悪ではないと仮定するだけで、これとは違った風景が見えてくる。レディースデーは差別だが許容できるではないか。この国にも世界にも、性別、民族、人種、学歴、財産、思想、宗教、障害、地域、家系、区別の数だけ差別がある。種の違い、属の違いの差別もある。
同じ元素から構成されているにも係らず炭素の価格は異なる。海はゴミ捨て場であり自分の家の前は綺麗に掃除される、珪藻は錠剤になり、雑草は薬で枯れ、作物は収穫のために刈られる。魚は絶滅するまで鹵獲され、牛には権利はなく育ち殺される。腸の中にいる微生物は毎日 50 億が生まれ死んでゆく。肌に取りついた細菌は白血球に取り込まれ殺される。死だけで言えば人間は無罪ではない。人間だけを特別扱いしている世界の中で人間だけはすべて平等と言うのは少し無理かと思われる。
クジラやイルカを守れという人々は自然環境への想いから行動しているのではなかろう。彼らは人と他の生物との間にある差別という問題に足を踏み入れている。これは人権という概念の拡張であるか。ある時代には、ある地域では、考えられない事由で差別を行う。肌の色の差別に首をかしげている人が、自分の国に帰れば生れた地域で誰かを差別する。
差別は、多く権力者に利用され闘争に活用されてきた。それが感情と結び付き理性よりも生理に根ざして拡大していった。何かと何かを比較する能力は人間にとってとても重要な能力だ。人間が生物として生き延びるのに必要だ。この能力があるから差別もいじめも起きる。
差別という反応が善か悪かではなく、それが理性で許容できるかどうか、で区別すべきだ。小さな違いを見つけ出す人間の能力に根差している限り差別もいじめも無くなりはしない。
いじめや差別と対立する概念は平等であろう。人は平等であるから差別はいけない、と言えば、牛はどうか、クジラとは平等ではないのか、かつては黒人がそうであったように。我々は平等という価値観を考え直す必要がある。法の下での平等という考え方でさえ揺るぎかねない。フランス革命以降もういちど見直す時期に来ていると思われる。
平等が絶対に正しい概念とは誰も証明していない。差別が絶対にいけないと証明されていない。その結果に生じる利益、不利益は関係ない話である。刑事法で裁かれるからいじめはいけないは抑止であって結論ではない。
差別には許容できる差別とできない差別がある。恐らく平等にも許容できる平等とできない平等がある。どちらも成立する。許容がある以上、譲れない境界線がある。いじめも差別もこの譲れないものとの対立である。
試されているのは自分自身の価値観だ。差別もいじめも自分の価値観からは生まれない。空気に流され続けると何時しか信じている事さえ分からなくなる。
世界が危険ならばじっと成り行きを見守るしかない。ただ来るのに備えて沈黙する。流れが変わったら一気に乗り換えられるように準備をしておく。流れを変えるだけが方法ではない。
でも私の許容を超えてもその時に口に出すのでは遅いかもしれない。ただ棍棒で殴られるだけかも知れない。だから自分から声をあげる事は出来ないとしても誰かが声をあげた時にその邪魔をしたり敵にならないでいたい。