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2012年1月26日木曜日

地と模様を超えるもの - 趙 治勲

自分に何が出来るだろう、という問いは自分の無力を意味するものではない。

しかし碁打ちは、人様に語るような波乱の日日をすごしているわけではない。外面的にはいたって平々凡々。退屈な話しか出てきそうもありません。(p.1)

碁を打って生業とする人がいる。

碁はたかが十九路の盤の上で、生きた、死んだ、地が多い、少ないを争うゲームにすぎません。将棋だって似たり寄ったりで、強いからと威張れる世界ではありません。
碁は社会的にはくだらんものだと、碁打ち自身が考えないかぎり、どうしようもないと思うのです。
いまの世界、本来なら碁など打って食える状態じゃないんだ。大事なことや、やることがいっぱいある。社会的に見れば碁はくだらんものなんだと、まず認めなくてはならない。
私たち碁打ちは、生産社会と消費社会の余りで成り立っています。余りの部分で生活して、世間から認められています。
だから勝つのだ!(p.198)

プロ棋士と呼ばれる人たちがいる。

新聞の片隅に毎日掲載されている棋譜解説を読む人がどれくらいいるだろう。
新聞を隅から隅まで読むという人でさえ棋譜解説は埒外のように思える。

囲碁の歴史は古く三国志演義で関羽が手術するときに麻酔替わりに碁を打っていたという逸話がある。
趙治勲にも似た話があって交通事故の手術を全身麻酔なしで受けた。
麻酔することで脳の働きが鈍ることを怖れたのだ。

「碁が弱くなっちゃいけない。麻酔だけは打たないでくれ。このまま手術をしてくれ!」

碁は平安時代の頃から打たれていた。
その歴史は連綿と続き信長の三劫は凶事を立証し
幕末にえらく強い棋士がいたことは
ヒカルの碁によって広く人々に知られている。

2010年の広州アジア大会では競技種目の一つとして碁が打たれた。
中国や韓国での人気は日本以上のものがある。
日本棋院や関西棋院には台湾、中国、韓国、アメリカ、ルーマニア、ドイツ、
日本と国籍を超え多くの棋士が所属している。

囲碁は他の様々な活動と同じく人間がやることだから
そこには恐怖も矜持も知力も気力も全てが入り込む。

碁の神様がわかっているのが100だとしたら、私にわかっているのは、せいぜい5か6か、あるいはもっと下です。
これは藤沢秀行の言葉だ。

アマチュアが10cm先も見えない中でプロ棋士達はそれよりは遥か先を見ている。
それでも精々2m先だ。
そのような暗中模索の中で人はどういう風に生きるか。
勿論、これは盤上だけの話しではない。

碁は二人零和有限確定完全情報ゲームと呼ばれる。
全ての情報が公開されており碁の神様がいれば、
先手必勝か後手必勝か引き分けかのいずれかになるとされる。

しかし誰もまだ究極の棋譜を生み出してはいないし、
10の360乗と言われる組み合わせを打ち尽くすのにどれほどの時間がかかるか分かっていない。
そこに究極の棋譜があるのかないのか、
あったとしてそれが人間に分かるものなのか
どうやってそれを究極の棋譜であると証明すればよいか。
ましてやその必勝法は人間が手の内に収めることが出来るのか。

僕達はそこにあるほんの少しをようやく探し出したに過ぎない。
時間が永遠ならいつかはその全てを発掘する事が可能だろう。
誰が打ってもそれは誰かが既に打った碁だよとなるだろう。

だがそれが宇宙の寿命より短いかは誰にも分からない。
思えば人がヒトで居続けられる時間よりも短いのかさえも分からない。

尽きることのない地面をひたすら掘るとして
いつかは掘りつくせる事が分かっているからと言って
それが掘りつくす目的ならそれはシーシュポスのように空しいだろう。

それとも囲碁がこの世界から消えてゆくか。

囲碁も遠い将来はこの宇宙に存在しないかも知れない。
そこまで空想を逞しくしなくとも
囲碁に存在理由がなければいつかは社会からひっそりと消えてゆくだろう。

社会への貢献などというものを考え出さなければ消えるというのであれば
恐らくその社会も既に生きる力を失いともに消えてゆく運命にあると思う。

だが盤上にあるものはそのようなものではない。

どれ程の価値の原石であろうとも
磨き上げなければ一般の人々に知らしむことができぬのであれば
それは誰にも知られずひっそりと土の中に埋もれゆく。

この世のあらゆる仕事は専門的だ。
だから本当の所、他の人にはよく分からないものだ。

それは人も同じこと。
この世のあらゆる人は突き詰めれば個人的だ。
だから本当の所、他の人には良く分からないものだ。

それでもその凄さの片鱗が見えればそれで十分だ。
そこで打たれた人は必ず誰かに伝えたくなる。

科学や数学における先端の論文も誰もの理解が及ぶものではない。
新聞テレビで記事になる事もなく過ぎ去ってゆく業績は幾つもあるだろう。
人口に膾炙する、これは時代の価値や空気に大きな影響を受ける。
それはまるで幾重にも巡らされた蜘蛛の巣のように。

一部の趣味の人を相手に盤上にパチパチと石を置くだけの仕事です。
そうかも知れない、そうでないかも知れない。

どう思われていようともそれが正しい場合もあればそうでない場合もある。

この世にある全ての仕事を知っている人など居やしない。
知らないだけで退屈そうな仕事の中にも全力で立ち向かう価値はある。

私達が誰にも知られずに仕事をやっているとき、
それは人に知られず消えてゆくだけのものだろうか。
そんな空しい考えに捕らわれて良いものだろうか。

逆にいうと、碁打ちは碁だけを語れば、政治にも経済にも文化にも及ぶことができると、少年時代から信念がありました。世界が全部、碁というゲームの中につまっていると考えるからですが、あるいはこれは錯覚でしょうか。思い上がりでしょうか。(p.2)

これが言葉だ。

あの大震災から自分に何ができるだろう、と自問するかも知れない。
しかしそれは地震があって初めて表出した感情ではありはしない。

僕達はいつも、自分の仕事の中にその意味を見出そうとしている。
そこにどういう価値があるだろう。
それは誰かの役に立っているか。
何かは社会のためになっているだろうか。

こういった疑問は若さの特権のような所があって、
若いうちに自分探しや生きる意味について思い悩まないような知性ではとても足りない。
多いに悩みその先でこういった言葉を探し当てられないのはとても不幸だと思う。

あなたの目の前にある仕事は、畑の草取りか、コンビニのレジ打ちか、
大学の研究であるか、企業の経営か、世界中の富を動かす仕事か、
誰にも知られずひっそりと部屋の中にいることか、
そのどれであっても全ての行為は世界と通じている。
その目の前の事をしっかりとやることは、アフリカで泣いている子供を救うはずだ。

それが例え地下生活者で誰にも知られる事もなく誰にも読まれる事のない手記を書く事であっても
それは世界と繋がっている。そう信じることだけでいい。信じさえすれば世界と繋がる。

そう信じることは一つの信仰かも知れない。
あの地震があったからはっきりと思うのだが
そう信じることはそれが供養になるのだ。

庭の草むしりは
それが現実に目の前の必要な作業である。
そしてそれはそのまま祈りであり供養となる。

一つの商品を手に取りレジを打つとき、
それは信仰となり世界を救うはずだ。
そのまま誰かの悲しみを供養し世界を覆うはずだ。
誰もが繋がっている。

一つの石を打つ手の中に、
己の進む道があり、
その一手が信仰となり、
その一手が供養となる。
その一手は世界中と繋がる。

これは一つの信仰かも知れない。
どこにも論理的な帰結も推論にもなっていないかも知れぬ。
それでも仕事とは信仰なのである。

いや信仰だけでは足りぬ。
供養を伴わない信仰では足りぬ。
祈りが世界を覆わなければ足りぬ。

どういう祈りであろうとそれでいい。
祈りであると知る必要もない、言葉にする必要もない。
神を知る必要もない、目の前の金を追い求めてもよい。
善行なども必要ない、誰かを傷つけようとも
生きているだけで既に祈りだからである。

その信仰に立脚しないものを仕事とは呼ばぬ。
だから仕事の中にだけ正義が存在する。

その逆はない。
信仰の中に正義は存在しない。
何故なら信仰は仕事ではないからだ。

仕事の中に信仰がある、しかし、その逆はない。
そういう一手が盤上に散らばるものを囲碁と呼び
そういう一手を打つものを棋士と呼ぶ。

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