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2020年8月15日土曜日

Political Correctness

平等

平等は、義務に対する対価として生まれた。古代ギリシャにおいてはそれは兵役の義務であった。都市を防衛する者にはそれに見合った特権が与えられる。市民という身分である。

義務を果たした者は平等に扱われなければならない。この要求は正当に見える。階層があるから平等が生まれた。階層がなければ平等は必要ない。

人が少ない頃はそれぞれに順列を与えれば十分だった。しかし、人口が増えれば順列では足りなくなる。何人かをひと纏めにしてグループを作り、そこに平等が発生する。

後は階層をどれだけ細かく分割できるかの問題である。

階層

階層が生まれた頃、それは一代限りであったと考えられる。人の能力は子に伝わらない。だからひとりずつ見てゆく方が望ましい。しかし、人口が増えればとてもひとりひとりを見てゆく事はできない。

時間の制約を数量が超えれば、まとめて扱うしかない。他の方法があるかは不明だが、それくらいしか思いつかない。だから世襲が誕生した。世襲ならば階層は終身になる。これで身分が発生した。階層が階級になった。これらは極めて生物学的な要請に過ぎないものだ。時間の制約、人口の増加、そして哺乳類であるという事から演繹される姿だ。

もし我々が群れを作らない動物であったら階級や身分が誕生したかは疑わしい。もし我々が魚類のように数千の子を産む種族なら世襲が起きたかは疑わしい。その場合にどのような文明が築かれたかを想像するのは楽しい。そのような種族が革新や知識をどのように共有し伝播してゆくか。

階級に付随するものが特権である。親が獲得した特権を子がそのまま引き継ぐ。これを孫は当然と受け入れる。何回か繰り返せば社会は固定化し簡単に弾力を失う。特権を維持するのに能力が必要なくなれば、使わない能力が退化するのは自然の法。社会の内はますます堅牢になるが、外から眺めれば如何にも脆弱である。

だから社会は完成しえない。構築と破壊を繰り返す。技術革新、環境破壊、民族大移動、宗教、様々な条件で揺れ動く。社会は反応しながら変遷してゆく。ある環境での弱者が異なる環境では強者になる。だから人は旅をする。

労働力の解決

人間が生物である以上、エネルギーは供給されなければならない。それを取り出すものが労働力である。人が生きるには、恐怖からの解放、心理的満足、充足感も必要で、それらを上手にコントロールする、そう主張する思想は多い。

人間は労働を介して世界と対話する。そしてエネルギーを取り出す。食料生産、資源の獲得、家屋の建築、災害からの避難、救助活動、いずれも労働力で行う。特定の階層に特定の労働を割り当てるのは自然であろう。その割り当てを固定化するのも効率がよい、家族単位で知識を蓄積するのが基本だった。

こうして階級と労働は密接に結びつく。労働は人々に役割を求める。労働という切り口で得られる唯一の人間のインターフェイスは役割である。少なくともこの星では。人は労働に寄せて何かを演じる。階層が人々に役割を演じる事を求めた。

奴隷さえ労働の一形態だ。ある階級の人が数百年、数千年と虐げられてきた歴史の中で、何かを演じ今日も階層を生きている。

都市化

人間の歴史は人口が増加する歴史である。農業生産力が向上すれば人口が増える。人口が増えれば人間が溢れる。溢れた人間の行き場が必要である。農村を追われた者たちが都市を形成した。追われた人々は都市に密集した。都市では農業以外の労働が必要だ。貨幣が食料と交換できるから都市は成り立つ。交易の中心となる。

都市化は歴史が見出した余剰人口を解決するひとつの解であった。このあり余る人口は戦争の理由にもなる。十分な軍隊を構成する第一の条件を満たすからである。

都市の余剰人口が知識層を生む。天文や金融などが発展する。数学を基盤として学問が発展する。商業、工業、金融、医学が発達する。

最大のマジョリティは都市の住民になる。都市は新しく生まれた集団だから従前の階級には組み込まれない。新しく生まれた人々は中産階級(ブルジョア)という新しい階層を形成した。

啓蒙思想

娯楽の先で思想が先鋭化するのは確かである。とことんまで突き詰めた娯楽は哲学や思想に結実する。人間に余暇がなければ学問は発展しなかった。もしニュートンが毎日の食を得るために畑を耕すような生活をしていたら万有引力の発見は難しかったのではないか。農業経済が貴族という富裕層を生み出さなければ富の蓄積は起きなかった。

都市経済は農業経済より豊穣になったが、それを支えたのは常に農業生産である。そして農業生産に携わるものは多く農奴や奴隷たちであった。農奴や奴隷が下支えするから全体が成立していた。人類の歴史の表層に現れる貴族たちの背景には広大な人々の労働があった。

都市化によって農業中心の経済から商業中心の経済にシフトする。よって貴族と中産階級は経済的闘争の相手だ。この時点では富裕層と農奴の間に平等という概念は存在しない。またそれを求める運動でもない。

市民改革とは、都市部の経済が従来の農業中心の経済体制を駆逐する運動であった。その最大の障害は王政であった。貴族社会の頂点である王、乃ち農業経済のトップが中心である経済は終わらねばならぬ。そのためには体制が変わらなければならぬ。

都市の経済が資本主義経済を推進した。資本主義の成立には、富の蓄積だけでは不十分で、勤労の精神を必要とするが、ヨーロッパと日本でそれが起きた。

ヨーロッパで起きた新しい経済体制は新しい平等の概念を必要とした。それは労働者を獲得するための。義務の対価としての平等ではない、新しい労働に相応しい平等。

基本的人権

人間は生まれながらにして誰もが等しく同じ権利を持つ。啓蒙思想が導き出したこの基本的権利という仮定は、人間の平等を支える思想としてある。我々の社会はこの思想が根底にある。

義務は平等の条件ではない。生まれながらにして平等なのだから。それは如何なる制約も設けない。この思想的転換が資本主義を支える労働力を獲得するために必要だった。

基本的人権に違反しても自然界にペナルティはない。よって物理的に違反する事も可能であるし、無視しても構わない。そんな脆弱な存在であるが、そうでなければ労働力は集まらないのである。

神が万物を作った。ならば神が作った人間とは誰の事か。人の姿をしているだけでは人間ではない。少なくとも世界に進出したヨーロッパ人はそう考えていた。そこに基本的人権という思想は何の役割も果たさなかった。牛に認めないのと同じだ。

能力の流動性と固定性

基本的人権は人を平等と見做す。それが労働に対する対価の唯一の指針になる。つまり労働に対する対価は身分や階級によって決めない。

資本主義の労働は資本家から見てのものだから賃金は低ければ低い程よい。ただし労働者を奴隷としては扱わない、なぜなら、その方法では労働者を確保できないからだ。

自分の取り分を除いた余りから賃金を支払う。賃金は少ない方がいい。問題は自分の取り分をどれくらいと決めるかだが、ヨーロッパ人はそういう点は大胆だった。恐ろしく自分たちを善人と見做す事にかけては史上類をみない人々であった。

基本的人権が求める平等は労働力の供給源としての平等であって、その対価の束縛ではない。対価は能力に対して支払う。生み出した利益で決める。同じように働いても成果がなければ評価は低いし、それで正当である。そう当時の人々は考えた。今の人々もそう考える。

資本家も労働者もそこで合意している。だから学歴によって給料に差が出ても差別ではない。我々の社会は学歴を差別とは呼ばない。未来ならいざ知らず、我々はそれを許容している。もし、人種、性別、民族などを理由に賃金に差を付けたらそれは差別である。しかしそれが能力への評価なら差別ではない。

貧富の差があっても労働者が流動できる時代があった。それは社会全体で教育が充実されていなかったからだ。そのような時代は個人の努力と資質によって成功する事は可能だった。教育が充実してゆき、その程度の努力では何の意味もなさなくなる。貧富の差が教育の質の決定的な要因となる。子供の能力は貧富の影響で決定する。親が裕福である子は有利である。それは個人的な努力でどうにかできるアドバンテージではなくなった。

我々はそのような格差を基本的人権の侵害ではないと考えている。その不平等は正当であると考える。基本的人権は、基本的人権という平等を提供した代わりに、労働における不平等を正当化した思想なのである。これが資本主義の求めていた平等という思想であった。

評価と量化

生物学的には人間はみな違う個体である。双子でさえ構成する原子は違う。立っている場所が違う。場所が違えば視界が異なる。視界が異なれば違う精神が育つ。

それを無理やり平等とするにはそれなりの無理が必要で、人間は何をもって平等を定義したのか、それは何を切り捨てたのかと同義であり、その結果として、どのように人を扱う事が許されるか、自然はただ其々を生み出したのに。それを同じと定義したのは人間である。違いを定義したのも人間である。

我々が平等を考える時に量化は不可欠で、量化しなければ比較できないはずである。数値化は有効桁の定義の問題だから、不公平の殆どは金額に置き換えてもよい。有効桁を大きく取れば違いが沢山表れる、小さくすれば違いが丸められて見えなくなる。経済は労働を価格に量化できる。

しかし上司はこう答える事もあるだろう。あいつが出世したのは私に気に入れられたからではない。彼が太鼓持ちだからでもない。彼のコミュニケーション能力を高く評価したからだ、それは不公平でもなんでもない。我々は量化されにくいものでも評価する。恐らく感情の強さは対数的である。

マルクスの資本論の背景にも平等はあったはずだ。しかし共産主義の平等は、従来と同じものを想定した。経済システムが変わる時、それに見合った平等の概念は確立されなければならないはずである。それを構築できなかったから失敗した。そう考えて何も困らないはずである。共産主義の失敗を誰も説明できていないのだから何を言おうと自由のはずである。平等が不足したのだ。

ポリティカル・コレクトネス

political correctness は、社会に残っている許されざる過去を見つけは駆逐する運動である。不平等は是正しなければならない。これまで略奪してきたのだからもう返さなければならない。いつまでもこんな事を繰り返していてはいけない。なぜ過去を否定しなければならないのか、一体何が人々にそのような希求を求めているのか。

公平の概念を拡張する。その拡張に伴って量化してみたら様々な不公平が見つかった。あちらにもこちらにも。これも不平等ではないか、これも過去の略奪の延長ではないか。political correctness は、野火の様に過去を焼き尽くそうとしている。

これは労働に対する対価の議論である。これは仕事の分配に関する問題である。

明らかに貧富は人生の結果に影響している。人種は明白に人生を左右する。それが経済システムによって組み込まれている。人々の性向が、社会的な慣例が、人々を許容し強要し蔓延している。

これまで散々略奪してきたのだから、そろそろ遠慮したらどうか。このような経済の仕組みではこの先に進めない。新しい雇用は、今までの平等では労働力を確保できない、すべきではない。この運動は、新しい経済が古い経済を駆逐する闘争劇であると理解するのが相応しい。

大きな集団には資本主義というルールがある。小さな集団にはそんなルールは必要ない。互いによく知る間柄だからルールなどなくても上手くいく。大きな集団は人口に依存してきた。人の数が決めていた。以前はそうであったが IT の出現が集団の大きさを変えた。人々がSNSで結ばれる事で世界の距離がどれほど縮んだか。

ポリティカルコレクトネスは身近であるからこそ他人事では済ませられないという感情が支えている。文化の盗用も然り。特権をかざしてこれまでさんざん稼いできた。まだ欲しいと言うのならそれは強欲である。この仕事に相応しいのはあなたではない、別の人がやるべきである。

要するに、仕事はもっと公平に分配されるべきなのだ、誰かが独占していい訳がはない。これまでの平等の概念は終わりだ。それは不公平である。新しい平等の概念が必要とされている。

日本ではそれを次のように言った。

談合しようぜ。

談合

談合は地域における富の再分配を担う自然発生的な仕組みであった。信頼関係で結ばれた集団は、過激な競争を排し、互いに協調し、結果を分配する。それは地域を長期的に安定させる機能を提供した。

それは協調だけの仕組みではない。今年、自分たちが受けた仕事は、何年かしたら別の企業が担当する。少なくともその可能性がある。だから品質の手を抜く事ができない。そんなことをすれば信頼を失い談合から弾かれる。談合には一円のコストを掛ける事もなく品質を維持する仕組みが内包されていた。

確かに積極的なオープン性はない。どちらかと言えば閉鎖的である。しかし、それは集団の在り方の違いに起因するものであって、閉鎖性にはオープン性が備える機能がないという話ではない。

どのような組織でも必要な機能は何等かの形で備わっている。緩やかな閉鎖的なシステムならそのシステムに見合った形で機能が働いている。

何処かが業務不能に陥れば、素早く代替先を見つける。全体が常にバックアップとして機能する。業務規模に応じて臨機応変に労働力を提供し、また解散するスケーラビリティを持つ。これらを一円のコストも掛けずに自発的に提供できる体制になっている。すべて談合という仕組みを維持するために参加する各社の自発的な協力、協調、相互監視が要求される。一蓮托生、運命共同体的な性質が参加者の全てに性善説で行動する事を要求する。

談合は地域に安定性を安いコストで提供する。その見返りは未来への確約だけである。

システム論

システムは機能を提供する。しかし、機能が提供するものは表面に見える部分だけではなく、副産物的なもの、無意識的なもの、副次的なものも含む。システムは様々な部分の総計であるが、その効果の波及する部分はきっと総計より大きい。

人の流入が激しい地域では、お互いに知らない人間ばかりだから、積極的に係わらなければ互いの信頼は生まれない。自然とオープンな社会になる。この基本的な態度は社会の様々な部分に見受けられる事になる。

人の流入が少ない土着の地域では、生まれてからずっと知っている人ばかりだ。互いの信頼は生まれている。そういう地域は閉鎖的になり、外から来た人への警戒感は強い。

これらは基本的な集団の在り方の違いから起きるもので、その違いを内包したまま社会の様々なシステムは構築されているので、それらの違いに起因する長所もあれば欠点もある。

世界は小さくなっている

世界が狭くなれば、数多くの出会いがある。不幸な対立もあれば幸せな統合もある。

人の出入りの激しい地域ではビジネスはその場限りで完結する方がいい。短期的に瞬間風速が最大になる方がいい。一方で土着型の地域では、長期的な安定性を指向するので短期的な利益は必ずしも望ましくない。利益の確定は、もっと先にある。

これらの異なるモデル、短期的な利潤を最大にするモデルと、長期的な永続性を最大にするモデルが争えば、そのどちらかが勝利するにしても、それは互いの長所や欠点によるものではなく、その時の経済環境に適応したかどうかで決まる。この競争に晒されて談合は否定された。

談合というシステムをアメリカで導入するには何が必要か。求められているものは分配の平等であるはずだ。義務でも能力でもない。誰もに生きる権利がある。誰もが等しく生きてゆけるのが望ましい。ベーシックインカムという考えもそこにある。これ以上、今の方法は通用しない、経済システムがそのように要求している。人類はその分配を AI に託すべきではないのか。この社会変革を求める運動の背景にはそう思わずにはいられないものがある。