カナンの女
農夫が芽を出した苗を間引くようにあなたがたを間引くのである。実った麦を刈り取るようにあなたがたを刈り取るのである。パンにするために磨り潰す麦もあれば、来年の種籾になる麦もある。刈り取られる事なく落穂となるあなたがたもまた私の麦である。わたしはイスラエルの失われた子羊以外の者には使わされていない。
そう答えるイエスからひとりの女が引き下がらない。彼女には助けねばならない娘がいた。
「主よわたしをお助けください。」
イエスは答えて言われた。「子供達のパンを取って子犬に投げてやるわけにはいかない。」
イエスは彼女のことを子犬と呼んだ。
「その子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
サタンさえ追い返したイエスの言葉がカナンの女には届かない。それどころか、この女性がイエスを動かす。
そこでイエスは答えて言われた。「女よ、あなたの信仰は見上げたものである。あなたの願いどおりになるように。」その時に娘は癒された。
イエスはイスラエルのメシアとして生まれた。多くの預言を成就し、それは完成する予定であった。この女がイエスの前に現れるまでは。
イエスにはこの女を助ける気は全くなかった。彼女から何かを願われても断るつもりであった。女がもし引き下がればその日も何もなく終わったはずである。
だが女は引き下がらなかった。彼女は言葉を尽く、あなたが子犬と呼ぶならそれでもよいのです。しかし子犬でも床に落ちたパンくずならばいただくことはできるでしょう。あなたは、あなたの神はそれさえも許されないのですか。
彼が狼狽したかどうか聖書には書かれていない。だが彼女の言葉は槍のように突き刺さった。彼女を子犬と呼んだのは自分である。信仰をパンと呼んだのも自分である。彼女の信仰は深い。神のパンくずさえも彼女は信仰に値すると言うのだ。
イエスはやられた。
この時、イエスはメシアとしての道を踏み外すことを決めたのである。
この女を追い払ってください。叫びながらついてきてます。
そう語っていた弟子たちは納得するだろうか。彼はイスラエルを救う役割を捨てた。この日に起きた事は預言されていないはずである。この先、どこまで堕落してゆくのか。
イエスの行動は裏切りと呼ばれても仕方のないものである。信仰の平等性とでも呼ぶべき転換であろうか。あらゆる人を分け隔てなく神とは信仰によってのみ対峙するものである。
カナンの女を拒絶さえしておればこの問題は起きなかったのである。イエスは彼女を受け入れた。それは、そのほかたくさんの人々も受け入れる事を意味する。誰も予想していなかった行動である。
するとたくさんの人々が、足、手、目、口などが不自由な人々、そのほかの多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いた。
奇跡が神の子を示すのではない。聖書を深く知っているから神の子なのでもない。イエスは奇跡に何の価値も見出していない。それは神の御業であって自分の力ではないことをよく知っていた。いつかその力が失われるかも知れない事をイエスが気付かなかったはずがない。
イエスは言葉によってサタンを退けた人である。サタンは彼の言葉に沈黙した。サタンの問い掛けはそこで潰えた。そのイエスに対して、カナンの女はなんと迫ったか。
彼の言葉は退けられた。だがイエスは沈黙しなかったしその場から立ち去る事もなかった。彼は決意し、奇跡の力を使う。
荒野の中で、こんなにたくさんの人々に食べさせるパンを、どうやって手に入れましょうか。
イエスの生涯はカナンの女を切っ掛けに狂ってゆく。本当は十字架にかけられるような人ではなかったのである。イエスには拒否できなかった。その時からイエスの真実があると思うのである。