人はパンのみで生きるにあらず。誰かがそう話していたのを町の飲み屋で聞いた気がする。
その通りである。我々ローマ人はパンのみで生きるのではない。我々ローマ人にはコロッセウムが絶対に不可欠である。
人生の全てがこのコロッセウムの中にある。我々は人生の何たるかをこのコロッセウムを通して知るのだ。パンとサーカス、人が生きるのには食事と文化が必要なのである。これがローマの答えだ。
コロッセウムには様々な戦いがある。東方から、アフリカから、聞いたこともない地域から集められた奴隷たちが(肌の色も様々なものだ!)、時には組合って、あるいは単独で、時には武器を取り、あるいは素手で、様々な戦いを見せる。そこに奴隷たちの命の昇華というものが宿る。
ローマは永遠だ。こんなにも深く人間の人生というものを考えているのだもの。
さて、私、ステパルニウスは根っからのローマっ子である。そんな私が見てきた中でも最も印象の深い長く忘れられない戦いを紹介しよう。正確な日付は忘れてしまったが、まだネロ帝の頃だったと思う。
その日はいつもと同じように奴隷たちの戦いを見ていた。その中に一人の戦士とライオンの戦いがあった。
戦士は中央に立って、じっと檻の方を見つめている。ゴロゴロといううなり声が聴こえている、檻が開く。
ライオンがゆっくりと姿を現す。思っていたのよりずっと大きい。
ライオンは次第に中央の戦士の方へと近寄ってゆく。戦士は楯を構えて、剣をぐっと引いて構えていた。なるほど、この戦士はバカでない。楯でライオンを防いで、その隙から剣で一突きにする気だ。
ライオンが何回かの威嚇を繰り返す。戦士も距離と取りながら、一撃のチャンスに賭けているようだった。
緊張感。
これぞコロッセウムの極み。
時間が止まったかのようだ。この勇者もこの世界から消えてしまうかも知れない。その運命に抗うように闘士が中央で立ち構えている。今日という日が、昨日と全く同じ一日の顔をしている。
ふたつの命、命を懸けた戦い。ライオンがいきなり飛び上がる。楯を構えた戦士。
その時、引き裂くように爪が突き刺さる。楯はあっという間に砕けてしまった。
瞬間。戦士の白い腕が伸びた!
見事に突き刺したか!
いや、違う。その一撃はひょいとかわされて、ライオンがもう一度飛びつく。
腕。
その白い腕に。
赤、鮮血。
ライオンが噛みつく。
そして鈍い音。
骨。
まさに骨。
骨の砕ける音。
バキバキバキッツ。
コロッセウムにその音が響く。あれだけあった熱狂が一瞬で鎮まる。
沈黙。
これぞ真の沈黙。
そして。
歓声。
圧倒的な大歓声。
周りの者も、男も女も子供も老齢も、私もあらんかぎりの声で叫んでいる。
声を限りにしての熱狂!
ああ、なんと戦士の腕が噛み千切られたのだ。
こんな瞬間のために私は生きている。私の周りの者たちも同様に生きている。誰もがみな同じ時代を生きている。その生きている感動をこの目で見ている。これこそがローマ人の人生というものだ。
勇者が悲鳴を上げている。耐えられぬほどの痛みなのだろう。剣を持ち替えてライオンを突こうとした。
が、ライオンもさっと距離を取った。ライオンの顔が赤く染まっているように見える。ベロで顔を舐めているようにも見える。
次の一撃を狙っているな。
名もなき戦士も人生の絶頂を味わっているに違いない。
様々な感情の中で人生を感じている事だろう。
なんという感動。
腕から夥しい血が流れ出ているが、何度も何かをわめきながら剣を振り回している。
それは異国の言葉だったのだろう。
もう一度ライオンが襲い掛かった。
そこで思いもかけない戦士の意地を見た。なんと戦士は自分の傷ついた腕をライオンに噛ませたのだ。そこを剣で突こうというのだ。なんという強靭な精神だろう。これがコロッセウムで見られる人間の力というものだ。会場が揺れるほどの大歓声だ。
だが、ライオンは今度もさっと距離を置いた。戦士の一撃は虚しくも空を切ってしまった。
戦士は力尽き。ずさっと地面に倒れこむ。
勝負あった。二度もの果敢な戦いの結果だ。
素晴らしい戦いだ。最後まで諦めない不屈の闘志とそれを上回ったライオンの能力。まるで神話の世界を見ているかのようだった。
負けてもなお素晴らしい。これぞ美しさというものだ。
ローマ、
ビバ・ローマ。
我々は興奮の絶頂にいる。
倒れた戦士の周りをライオンがぐるぐると回っている。きっとライオンも戦士を称賛しているに違いないと思った。倒れた戦士の体はまだぴくぴくと痙攣している。ライオンが寄ってゆく。
会場は事の成り行きを見守ろうと静寂に包まれた。私にはライオンがまるで戦士にキスをするかのように見えた。慈しみ、やさしさ。ライオンにもそういうものがあるのか、と感動していた。私が何かの詩を思い出していた時!
誰一人としてその光景は想像できなかったであろう。
何が起きるか分からない。ああ、これぞ人生。これがための人生!
なんとライオンが倒れた戦士のはらわたを引き裂いたのだ。一瞬の事である。あたりが真っ赤に染まる。
私はそこからもう目が離せなくなった。その光景にあちこちで女子どもが卒倒するのが見えた。
ライオンはその戦士のはらわたの中に顔をうずめ、それから走り出した。ライオンの口から赤い薄紅のものがずるずると引きずられている。こんな経験は今までしたことがない。こんな光景は初めてだ。
運命。
これを見ることこそが私の運命。
とても目が離せるものではない。
これが人生か。これぞ人生か。
私はいつの間にか興奮してあらんかぎりの声を上げていたようだった。
更に、更に、更に、驚くことに、それでも戦士はまだ死にきっていなかったのだ。剣で空を切り裂くように、何度も腕を振っていたのである。
私はその先を見上げた。
空!
深紅とは何の関係しない青。
血の色も、この世界の緑にも染まらない青。神々のふるさと。
ああ、私はローマに生まれて本当に良かった。このような感動を味わえるのはローマ人だからである。
私は今日帰ったらアンカテリーナに求婚すると決めた。この決断は、この興奮のなせる業だろうか。それとも戦士の腹から長々と伸びたピンク色のものを見たせいであろうか。
しばらくして戦士はもう動かなくなった。次の試合のために、その戦士の遺体は運び出された。
満腹。
おなか一杯。
もう今日はこれで十分である。私は一目散に会場を後にした。そして彼女の元へ行った。彼女の YES の声を聴いたのである。
そこから先の記憶がない。
興奮しきっていて、踊っていたのか、走り回っていたのか、まったく記憶がない。
もちろん祝いのビールはしこたま飲んでいたが。
気が付くといつの間にか外は夜になっていた。空には星が煌いている。夜風が優しい。
あの女戦士が最後にみた青い空はもう紺青色に代わっていた。
今日、一人の女戦士が逝った。彼女の命が我々の与えたものを私は何度も繰り返して思っていた。
どれだけ時間が経とうと、我々がこの世界から去った後でも、これは真理の戦いとして残るに違いない。今日の日を神は永久に称えるに違いない。
ああ、ローマ、この素晴らしき日々。