ミミズは愚かなのであろうか?
彼の感覚器は、明かりの方向が分かる目と地面の振動を感じる程度のものでしかない。その我々から見れば限られた情報の中から、彼は命の選択をしている。恐らく、彼は限られた情報から合理的な選択を行っている。
合理的に見えないのは、彼が馬鹿だからでも、下等だからでもない。彼が手中にできる情報が我々に分かっていないからに過ぎない。
全ての生物は合理的であり、もし、合理的に見えないなら、それは前提条件の方に誤りがある。
ミミズの振る舞いを笑える人は、天動説を笑うのも容易い。
全ての人が知っているとは言わないが、学校で習った事を覚えている人なら、地球が太陽の周りを回っていることは知っているだろう。
だが、今でも教科書に天動説を載せているのは、天動説を嘲り笑うのが目的ではないだろう。地動説に駆逐されるための教材として取り上げているわけでもないし、今の科学に優越感を感じるためのものでもない。
そこには自然な考えがあった、と教えたいためだろう。だが、昔の人は幼稚で子供が考えそうな思考で納得できたのだと思ったら大間違いだ。
既に、遥か昔、バビロンの頃から、人間は天体を観測していたし、知る限り、紀元前には地球の大きさを測定していた。このエラトステネスという人がどういう方法で地球の大きさを測定したかは本書に譲るがその瞬間に、地球と月までの距離が、地球と太陽までの距離も求められたという話はどうだろうか?
エラトステネスは最後のピースを見つけただけであり、それまでに、距離を算出する式は既に見つけていた。
どのようにして距離を算出したかも本書を読んで頂くとして、ここで重要な事は、これだけ合理的な考え方をする彼らが無邪気な子供の如く、太陽が毎日動いているから天動説を採用したと信じてはいけないのである。
本書を読めば、プトレマイオスが何故、地動説を嫌い、天動説を支持したのか、その理由がよく分かる。決して、愚かでも頑迷でもなく、そう考えるべき合理的な理由があったのだ。
我々が知る限り、地動説を唱えた最古の人は、ピロラオスという名前の紀元前5世紀のピタゴラス派の人らしい。らしい、とは、つまり、本書にそう書いてある、という意味だ。この説はアリスタルコスによって、更に推し進められ、アルキメデスもこの話は知っていたとある。
プトレマイオスが紀元83年に人だから500年も前の事である。
それでも当時のギリシャ人はこの説を採用しなかった。恐らくだが、現在の僕達が当時にタイムスリップしても地動説で彼らを納得させることは難しい。星を観測してごらんよ、望遠鏡で見てごらんよ、と提案してもそこには望遠鏡もない。
ガリレオの時代に、望遠鏡で見ても、人々は地動説を信じなかった話が本書に出てくる。
地動説を唱えたコペルニクスも、その軌道は円運動と考えていた。ヨハネス・ケプラーが楕円軌道を見つけるのに8年の歳月を費やしている。
僕は天文学者ならヨハネス・ケプラーが一番好きなのだが、それは多分にCarl Sagan 「COSMOS」のせいだ。ケプラーの姿は、TVのコスモスで見たロバに揺られている修道士のままイメージが定着している。
ケプラーとも文通していたガリレオが、金星の満ち欠けを天動説よりも正確に予測しそれが観測された時、初めて地動説が天動説よりもより現実を上手く説明できると示された。これによって天動説よりも地動説の方が正しい事は証明されたのだが、それでもガリレオは
「それでも地球は動く(Eppur si muove.)」と呟かねばならなかった。
著者のSimon Singhは、これらの天動説には否定的であり「その場しのぎ」の説と呼んでいる個所がある。この記述が僕には気に入らないが、そこには科学史において不遇を得てきた人達への同情があるのかもしれない。
正しい論説が幾つも埋もれてゆく様を取材を通して見てきたことから彼は独特の怒りや絶望を感じているのだろうか。科学的に正しい理論が実験されなかったり無視される数々の事例を追いかけた著者には誤った考え方を信じ込んでいる科学者に少しだけ寛大ではなく批判的な面がある。
だが、どちらも合理的であろうとする態度に誤りはない。神の世界や保守的な考えであっても、その中での合理性がある。
二つの異なる意見が対立する場合、そこは科学的態度をもって挑むべきだが、だが、それさえも甲乙つけがたい場合、つまり判断ができない場合が起きる。
どちらの意見にも一長一短があり、それが実証されるのを待っていた。
それが、本書のテーマであるビッグバンである。
本書の第二章より始まるビッグバンの話は、まずは、光の速度がいつどのように測定されたか、から始まる。1670年代の話である。
17世紀には、光の速度を科学的に正しいと思われる観測と理論に基づいた方法で算出した。その方法が想像できるだろうか。
光速の測定から始まって、アインシュタインの登場、量子力学の台頭、天文学の発展と絡みあう。相対性理論の話は、お決まりのエーテルから宇宙定数の話まで登場するがこれはプロローグに過ぎない。
宇宙の起源を知るためには、量子力学の成熟が必要であった。その理由を知っているだろうか。本書にはきちんと書いてある。
スペースシャトルの事故が、宇宙の起源を探る学者らを落胆させた理由を知っているだろうか?それも本書に書いてあった。
定常宇宙モデルとビッグバンモデルの二つのモデルがどのように決着を見るのか、この本に登場する科学者たち(それはほんの一部に過ぎない)が、どのように主張し、どのように実証したか。驚く勿れ、この問題が解決を見るのは、1992年の事である。
本書は当代随一の科学書であり、科学者を好きになったり、嫌いになったりしながら、合理的とはどういうことか、科学的とはどういう事かを物語る。
そして、この本で語られている幾つものテーマは、実は何千年も前からあるテーマであることに驚く。太古の人類が自然と問うたその問いに、幾つかは納得できる答えが用意できたが、まだ答えがないものがある。それは、神話の地球像と対して変わらないままで今も横たわっている。
その答えはいつか見つかるだろうか?
著者は楽観的であるように見える。それは科学という態度を信じているからだろう。
まったくのゼロからアップルパイを作りたければ、まずは宇宙を作らなければならない。(カール・セーガン)
BIG BANG vol.1/vol.2