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2024年4月2日火曜日

美しい花と花の美しさ

「自由な報道」と「報道の自由」

「自由な報道」と「報道の自由」はどう違うのか。

報道に関して考える事と、自由について考える事。どう違うかと言えば、出発点が違う。その時点で何を重視しているかのバイアスが掛かっている。

出発点が異なるのだから、向かうべき方向も影響を受けているだろう。球体で方向が別でも同じ場所に到達できるものかどうか。

文法の修飾の方向、受ける主体の違い。「報道」と「自由」。「な」と「の」の接続助詞の違い。それぞれの言葉が持つ働き方の違い。行動か概念か。

「な」と「の」の違いが意味するもの。「自由の報道」「報道な自由」では意味が成立しない。

「自由な」とは言えても「報道な」とは言えない。「な」は状況を示す言葉だから。困難なとか楽ちんなと同じ。「報道の」と言えるし「自由の」とも言える。報道は職業、機能を指す名詞である。「の」は次の言葉が持つ意味を限定してゆく。

自由は状態であり報道は活動・職業である、この違いが言葉を制限する。ここにニュアンスの違いがある。自然は効率を尊ぶから、同じ意味の異なる言葉を許すはずがない。よって異なる言い方があるならそこには意味の違いがある。その違いは遥かに遠いものかも知れない。

「自由な報道」は、報道について考える事である。自由な状態にある報道とはどういうものか。「報道の自由」は、自由について考える事である。報道に関する自由とはどういうものか。

「自由な報道」を支える思想は「報道の自由」であろうか。もしそうならば「報道の自由」だけで十分である。「報道の自由」を定義すればそこから演繹して「報道の自由」が導かれるからである。

もちろん演繹で全てを正しく導ける訳ではない。「自由な報道」が出来ないと感じた時に、そこから帰納して初めて「報道の自由」という価値観に辿り着く。のかも知れない。

自由は世界でも最も重要な権利と思われる。しかしこの世界に無制限の自由は有り得ない。だから自由は必ず抑制され禁止されている。自由とは何に屈するかを定義する事である。物理学はそう言うであろう。政治体制もそう言うであろう。道徳や倫理もそう言うであろう。村やコミュニティのルールもそう言うであろう。

では「報道の自由」を定義すれば本当に「自由な報道」は獲得できるのだろうか。そのためにはこのふたつが関連しているかどうかを知る必要がある。

そのためには「報道の自由」が侵害された状況と「自由な報道」が侵害された状況を考え、片方の侵害を解決する事で明らかにもう片方も改善される事を示せばいい。連動するならふたつは関係性があると言える。

侵害された状況を考える。「報道の自由」は、常に何かに制限されている、自由の権利はそういう状況で起きる両者の合意の事である。そこでどうしても合意できない自由があるなら、それは権利である。

「自由な報道」は、報道に携われる人たちがある制限でそれを受け入れられるかどうかに掛かっている。これも合意の問題であるが、自由の権利には由来しない。

報道を制限するものが権力であるかスポンサーであるか市場であるかに係わらない。そして、その圧力に屈服するかどうかを決断する主体は報道の側にある。どういう阻害であれどのような自由であれそれを決める自由が報道にはある。

報道には元から無条件の自由など存在しない。それが「自由な報道」の中には最初から内在しており、いつもそれを受け入れるかどうかを決めながら仕事をしている。

「報道の自由」は民主主義にしか存在しない。それは権力者に対して憲法が保証する。この根拠なく自由は成立しえない。

「自由な報道」はどのような政体にでも存在し得るが「報道の自由」は民主主義で存在する。王が許す「報道の自由」は権利ではない。それは「自由な報道」を許しているに過ぎない。

人間は何でも自由に報道してよい。その自由がある。しかし、何を報道しても許される訳ではない。「自由な報道」も何かによって制限を受ける。それを報道する側は取捨選択する自由がある。

報道を妨害しようとスポンサーが圧力をかけてくるかも知れない。だがそれは報道の自由の侵害ではあるまい。それはビジネス上の契約不成立だ。気に食わないなら報道すればいい、その代わりの新しいスポンサーを見つけて下さい。

報道にはどの権力者に媚びるかの自由もある。どのゴシップも書くか書かないかを決める自由がある。社内には派閥があり、権力闘争がある。追われる者、去る者、媚び入り出世する者もいる。

どの状況でも自由な報道は何ひとつ失われていない。自分で選択しているからである。自由はどのような選択も支持する。

権力が検閲したり黒塗りにしても「自由な報道」は侵害されない。嫌なら発禁されても政府批判を続ければいいのである。その自由が報道にはある。そうやって幾つの革命や独立が起きたか。

「自由な報道」は自分の中にある。屈しても誰も批判はしない。自由はその決定を無条件で肯定するから。

人間には選択する自由がある。それは誰にも奪えない。だから世界には命を失うジャーナリストが後を絶たない。それでも選ぶ彼/彼女らの決意と選択がある。報道の自由などなくとも自由な報道に向かう、そう頑張ってきた人たちの墓標に花を捧げる。

「報道の自由」などなくても構わない。人間に「報道の自由」があろうがなかろうが、ある者は金のために記事を書く、独裁者に呼ばれて褒め称える記事を書く、フェイクだろうが、プライバシー侵害だろうが、自由に記事を書く。

「報道の自由」は裁判官が侵害されていないと言えばそうなるものだ。そんなものに個々のジャーナリストが右往左往する訳もない。あろうがなかろうが、私は報道する。

だが、と立ち止まる。それを命を賭けてまでやる事なのか。それはもう「報道の自由」の範疇を超えている。「自由な報道」でさえない。

独裁者に支配された国で自由の権利さえ侵害されている時に「報道の自由」は奪えても「自由な報道」は奪えない。「報道の自由」は国家に属し「自由な報道」は個人に属する。そして自由は個人に属す。

「美しい花」と「花の美しさ」

美しい花がある、花の美しさという様なものはない。(当麻)

花を美しさで語る事と、美しさを花で語る事。花は物質である。美しさは概念である。花という物質から概念が滲み出ている。よって美しさは花の中にしかない。だが、美しさは花を構成する要素ではない。

恐らく、脳の中にある記憶は個々の細胞がある瞬間を写真の様に覚えている物ではない。画像、音、匂いなどを個別に記憶し、その時に起きた経験と関連させて蓄積しておく。この蓄積する順序が時間として認識されよう。

記憶は脳に蓄積された幾つかの情報を組み合わせて取り出す事だ。だから、取り出すとは、その都度、その都度毎、新しく一固まりの情報として記憶を集め組み合わせ再構築する事だ。よって脳の機構として取り出す度に少しずつ記憶に違いが生じるのはむしろ当然である。

記憶を分割してゆけば、そこには経験の中心に居る何かが発見される。いつも中心にあり風景を見、音を聞き、匂いを感じる。それが感覚の受動者として空間に存在する。それは感情の主人公として常に振る舞っている。

この記憶は連続している。この連続性の中に一貫として共通する存在がいるなら、これを個として認識するのに不思議はない。私の発見である。この私が発する感情は時間の中で一貫性があるものである、これを心と名付けよう。

花が網膜を通して脳の中に入ってくる。その画像が脳のどこかの部野に映写される。脳の中に外界をコピーして作った仮想空間が展開されている。

原理的に言えば、「花」も「美しい」もどちらも脳の中に生まれた抽象化された情報に過ぎない。「花」と「美しさ」は異なる単語であり、概念であり、名詞と形容詞の違いもある。言葉の違いが異なる作用をする。全ての言葉が思考の主題となる。

だから、「美しい花」も「花の美しさ」も言葉として存在している。だがふたつの意味は?我々は言葉の意味を知らなくても使う方法を知っているのである。

言葉を取り除いてゆけばいつかは意味が通じなくなる。修飾を限界点まで取り除く。「美しい花」は美しいを取り除くと「花」が残る。花の中には美しいが含まれているから、厳密に「美しい」を取り除いた事にはならない。

しかし花から美しさを連想するのは陳腐である。誰もが思いつく普遍的な概念である。だから「美しい花」は冗長である。もちろん花に含まれるのは美しさだけではない。花には秘めるものがある。

「花の美しさ」から、花を取り除けば宙ぶらりんの「美しさ」が残る。そこから花に辿り着く道はあるが、星かも知れない、愛すべき家族かも知れない、生命も岩石も、凡そこの世界は物質として見ればみな美しい。

しかし花が消えればこの美しさは消えてゆくだろう。だから花の美しさは存在しない。君はよその子を見て我が子と同じと思えるのか。

プラトンは美しさのイデアを考えた、それは明らかに存在している。だから花の中に美しさが見つけられるのだ。

それは空のコップかも知れない。どんなものでも入れる事ができる。そこに花を注げば花の美しさが、空を注げば空の美しさが。花の美しさを抽象化すればそこから演繹できる。イデアを考えれば美しさという価値観で世界を貫ける。

その端を振動させれば世界も震えるだろう。その美しさを生み出す何かが花にも人にも宇宙にも宿っているはずではないか。

その美しさは花に固有なのか、それともこの花とあの花の美しさを同じと言うか。イデアで世界を貫くから美しいのか、それとも世界が美しさで溢れているからイデアが生まれたのか。

目の前に咲く花が美しさと一緒に君をどこかへ連れて行くだろう。それがあなたが見る花である、いや花を超えてその後ろに何かを見たとしてもそれは花のせいではあるまい。その向こうに美しさがあるとしても、それはわたくしの花ではない。

美しい花と言う時、その感触は人ぞれぞれにある。その時の感情は私だけの記憶である。私の感動は誰かと共感できたとしても、決して共有は出来ないものだ。誰とも交差せずに私だけの美しい花がある。花の美しさなど誰とも分かりあえない。

私たちに世界を選ぶ自由はない。降ってきた雨から逃れる方法はない。だから濡れる。濡れない自由などない。しかし濡れる自由があればそれで十分ではないか。

いつでも、我々は濡れない権利を求める事が出来る。だがそれは傘の問題で雨の問題ではない。まして私の自由の問題でもない。